社会有機体説と社会の物理

何者にもならない者がガン細胞であり、何者にでもなる者がiPS細胞なのであった。そして、両者には共通して個として成立することと重複とが許されているのであった。そして何者にもならないことを表明した者は排除されるのであった。

ホモサピエンスは脳という構造から必然的に何者かになることを強制されているのであった。強い力の場こそが世界の構造を決定し、それに基づいて他の力の場が浮かび上がるのではないか。

しかしながら、我々は細胞とは異なり、完全な情報を有しておらず、にもかかわらず、それを求めることはなく、まして、与えることなどできないのであった。逆に言えば、だからこそ我々は何者かになることによって、社会という系全体として成立するように妥協するしかないのであった。社会という作業物質を使うことによってしか仕事はなされないのであった。

さらに大きな視点に立つならば、我々の住むこの宇宙の熱的死さえも克服できるような究極の方舟を作る技術が獲得できない限りにおいて、環境というものは本質的に不安定であり、その意味においても我々は特別、もとい、特殊であることを強制されているのであった。

しかし、ここに耐えがたいジレンマが生じる。不安定な環境に適応するために特殊性を獲得しても、上に述べたことから、それだけでは特殊性ゆえに個を維持することはできないことになるのである。

大衆社会とは多勢に無勢の動かしがたい砂山である。もし誰かが完全な情報を獲得し、それに基づいて個として成立することが可能となり、さらにその情報が共有されるに至れば砂山崩しは終了し、世界は存続する。

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