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書くこと-人生をより美味しく頂くために

ここ最近、noteでコラムを書いているが、別に大層な目的やら計画があって書くようになった訳ではない。有り体に言ってしまえば、便利で使えそうだったから始めたのを覚えている。
基本的に、世間で言われているような計画や目的なんてものは、大して価値がないことが多い。まぁ、戦略コンサルタントなんていう、私にとって群を抜いて最悪な職業に就いている人であれば話は別かもしれないが。(ちなみに、次に最悪な職業は弁護士で、その次にマシなのが害虫駆除業者だ。なお、害虫駆除については私がやりたくないだけで、その生業自体は聖職者よりも尊い行為と考えているので、誤解しないで欲しい)
私は基本的に未来なんぞ予測しないが、ご立派な計画やら目的やらが往々に破綻するのは予め宣言してもいい。
なお、見ているだけでこちらまで窮屈な気分になってくる、スーツとかいう民族衣装を着込んだ主にオフィスビルという自治区に住まう部族の民が、お手製の”データ”やら”グラフ”なんかを持ち出してピーチクパーチク理解し難い言語で何か抗議してくるかもしれない。しかしながら、それらを文明人でも理解出来る言葉に訳すと、後付けの計画や目的でしかないことが分かる場合がほとんどである。(要約すると、事前の計画が上手くいかなかったということ)
実際のところ、お遊戯のように単純な事柄を除いて、当初の計画やら目的やら通りにことが運ぶことなんて、宝くじで当たる割合くらいでしかない。また、これらが役に立つことなんて、会社から予算を引き出す時くらいしかないし、むしろ、そうした計画なんかの所為で柔軟性が失われ、実務で足が引っ張られる場合がほとんどだ。(なお、実際の事例や研究なんかを知りたければ、読みやすいところで、ナシーム・ニコラス・タレブやエリック・エイブラハムソンあたりが確か幾つか挙げて説明してたので、彼らの本を読むと良い)
これはこのコラムの本題ではないので、ここではこれ以上詳しくは述べないが、そうしたものは脆いということだけは最後に言っておこう。
それが壊れるかどうかといった”確率”なんてあやふやなものは信用に足らないが、それが脆いかどうかはそのものの性質であって事実だから、それなりに当てに出来る。
脆いものは、脆いほど、多分壊れる。当たり前だ。計画は綿密に練れば練る程、脆さが増す。だから、きっと壊れる。これも当たり前だ。

さて、相変わらず前置きが長くなったが、然るに、私がコラムなんて普通だったら些か面倒なものを書くに至るようになったのは、そんなガラクタみたいなものの所為ではない。それはやはり、飽くまで実際的な要求があって、それを叶えるためだ。
なお、当初は当初のそうした意図があったが、それは(もしこの活動が続くなら)恐らく変容していくだろうし、そうあって然るべきだと考えていることは予め付け加えておこう。
ただ、現時点での私の考えを整理するためと、(そんな奇矯な人がいるとして)幾分か変わり者のあなたが私のコラムから何かを得るための一助と出来るよう、当時の意図を思い返してみるとしよう。

私は元々Twitter(今は、アルファベット一文字だったか)で、生きる上のヒント、言い換えると人生における意思決定の判断材料になるような他人の言葉や自分の考えを備忘録的に記録することをしていた。
当然、多用するものは自分の意識に染み付いているので、わざわざiPhoneを取り出すこともないが、慣れない判断をしたり、未知の判断をする時にたまに参考にする訳だ。
また、使えそうだなと思ったものをボンボン放り込んでいくことで、わざわざいつも覚えておくようにするなんて(死ぬほど)面倒なことをせず、心置きなく酒を飲んで記憶を飛ばしたり、小難しいことは何も考えずに友人と遊び呆けるなど気楽に日々を過ごせる。
このシステムの良いところは、IDとパスワードさえあれば自分の投稿をどこでも見られるので使い勝手が良いことだ。また、大勢の人間が使用しているので、正の予想外の潜在性を秘めているのも良いところかもしれない。(タレブの言葉を借りれば、正の凸効果だ)
後者の方は正直なところ、私にとってはおまけみたいなものなのだが、少し説明が必要かもしれないので補足しておく。ここではわかりやすく、正の側面をフォロワーの増加。負の側面をフォロワーの減少としよう。
Xの登録時、フォロワーは勿論0だ。また、登録後も、私は友人などとこれを使ってコミュニケーションをするつもりはないので、私のツイートに価値を見出すかなりの変人くらいしか私をフォローすることはないだろう。(つまり、引き続きゼロで2024年7月現在も予想通りほぼ0だ)
ここで予想外のこととはなんだろうか?
この世の自然法則からして、人数についてはマイナスにはなり得ないので、予想外なことはフォロワーが大量に増え、実際には変わり者というのは案外世の中に沢山いることを思い知らされることだ。(ただ、そうなると彼らは変わり者ではなくなってしまうかもしれないが)
一方で、逆方向に予想外なことというのはあり得ない。つまり、私が何を書こうが、フォロワーがマイナス100万人になるようなことはどう足掻いても実現出来ないと言える。
よって、予想外なことが起きた場合、それは正のものに限られ、負の予想外の結果というのは起こり得ない訳だ。何と素敵な一方通行だろう。
まぁ、私はフォロワーの増減に頓着がないので、フォロワーが100万人になったところであまりメリットはないかもしれないが、予想外から大きな損を被る状況は脆く、益を受ける状況はその反対(タレブでいうところの反脆い)であるのを示すものとしては好例だろう。
ちなみに、この例の面白いところは、フォロワーが増えれば増えるほど脆くなっていくことである。1億人のフォロワーがいる人は予想外で100億人に増えることは無いが(2024年現在の世界人口はおよそ80億人である)、予想外に100分の1になることはあり得る。
そして、100人のフォロワーが1人になるより、100万人のフォロワーが1万人になる方がダメージは大きいだろうし、あまつさえ、100万人が1人にでもなれば破滅的と言わざるを得ないだろう。

さて、そんなこんなでXやらYやらを使い始め、(珍しく)思った通りやはり使い勝手が良かったので、引き続きこれを使っていたのだが、その内に短い言葉はこれに記録していくのは十分だが、長い自分の考えをまとめたり、明確にするにはこれが不十分であることに気がついた。
ただ、そんな不満を持った私だが、自らの考えをわざわざ整理することや体系立てることが常に正しいなんて思っていないことは、先に断っておくとしよう。(なお、私の文章は必要と思えば易々と脱線するのでご注意願いたい。別に脱線内容に興味がなければ自由に読み飛ばしてもらって構わない)
そもそも、体系だった長ったらしい知識なんて、実生活においてはほとんど役に立たない上、表面的なことであればあるほど、考えを整理してもまた考えが変わって時間の無駄だったと分かることが多い。また、整理したことによって得られるリターンがそれに時間を掛けるコストを上回るかどうかなんて分からない(し、ほとんどの場合下回る)。
よって、私がこうしたコラムを書くときは、ある程度体系立てて予め考えておくことで、実際に役立つ場面が想定されている場合や、思考を整理することでそのコストを上回るほどの実際的なリターンが見込める場合に限られる。
これらの動機は混ざり合ってることが多いので、どのコラムでどちらを意図しているかというのは判別しづらい。しかし、あえて分けて捉えるなら、例えば、私のリスクに関するコラムなんかは、実践で使えるように体系立てて予め考えておくのを主に意識していた。
危険を目の当たりにした時、じっくり思索に耽っている暇なんてない。私が雪山で死にそうな時に、自分の判断の正誤をじっくり体系立てて検討なんてしてたら多分死ぬだろう。
また、このコラムは考えを整理して、書くということのエッセンスを取り出そうとしている。自分がコラムを書くことのぼんやりとした考えを整理し、明確にすることで、書く時に役立つエッセンスが手に取りやすくなり、よりサクサクと価値のあるものを書けると思う。(私にとって、これはこのコラムを書く手間に見合う十分なリターンだ)
また、上記2つに加え、心のどこかで有効だと分かっている選択肢に気付くのも、(価値ある)思考の整理には見込めるのに最近気がついたので、これも条件に加えよう。
意外かも知れないが、自分でその選択肢を選ぶ準備は出来ているのに、それが形を持って意識の表層に現れてなかったので選択肢に入ってこないことは往々にある。(尤も、特に危機的な状況の場合、実際的な状況に面して魔法のようにそれを思いつくことも多いが)
稀にただあてもなく思索に耽りたいから書く場合もあるが、私が筆を取る時は自然にこれらの理由に絞られるだろう。

ただ、ここまでその利点を述べておいてなんだが、別に私がコラムなるものを書かずとも、私の判断が変わらないことは多いだろう。
書くことで生成されるものの大元は実生活の判断の連続で磨き上げられた考えで、それは常に私の内にある。なので、それを言語化していなくとも、意思決定を迫られた場合、(理由は説明できなくとも)私にとっての正しい判断が下されるだろう。
また、文章の上でなんと言おうが、実際に行動を求められる状況で考えが変わったら、そちらの方が優先されるべきだろう。(ただ、基本的に私は自分がやらなかったり出来ないことを書くつもりはない。万が一、書いたことと実際の行動が異なる場合、必ず責任を持って修正するか、間違いだったと認める所存なのでそこの所は安心して欲しい)
何かを書くというのは、現実世界で得たものを言葉で捉え直すに過ぎない。そもそも、言葉で捉えられない知識というのもある。飽くまで書くことは補助的な役割に甘んじるしかないのは、忘れてはならないと思う。
コラムの場合、私は人生における知恵を対象にしているが、これは実際の判断における選択肢を取り出しやすくしたり、ほんの少しそれを豊かにするに過ぎないと言えるだろう。しかし、それで十分だし、そこまで出来ていれば上々と思う。

さて、そんな私自身もあまり意識してこなかった理由で、こうしてここでもコラムを書いているのだが、実のところ、私は小説も書いている。
これにもちゃんと実際的な理由があって、恋や愛といったものについての考えを整理しようとした時、そうした感情的なものは、確かに人生において重要なものだが、あまりこのように論理的に説明するのには適さないと思えたためだ。
感情的なもの。特に、愛や恋というのは、論理以外、もしくは、一見意味の無いように見えるものと切っても切り離せないことが多いように感じる。ここにはどうも、論理とは別の力学が働いているように思えてならない。(「恋は理屈じゃないのよ」という訳だ。稀代の物理学者アインシュタインが似たようなことを言っていたというのは面白い)
誰かを愛するという事実より、その愛に至った経緯やこれからの展望が事細かな部分を含めて重要になってくるし、彼らを包みこむ世界自体さえもそれに包括されて説明されるべきだろう。
いやはや。やはり愛や恋という性質に充てられ、ここでも大分詩的な表現になってしまったのでこれくらいにしておこう。
これに関してはやはりこのような場で論理的に突き詰めていっても効率が悪いように思うので、小説というそれに適したフィールドで明確にしたいと思う。(”小説”というのはよく出来た言葉だ。それは、小さな、個別の誰かの、不可解な感情の説明なのだ。おっと失敬、また詩的になってしまった)

なお、言うまでもないが、恋や愛について知りたいなら、小説を書くなんてことをするよりも実際に人に恋をしたり、愛したりした方が良い。
読むこともそうだが、書くことは現実の付き添い役みたいなもので、主役になることは決してないことは忘れてはならない。似た様な話の繰り返しになるが、それは飽くまで実生活をより豊かで実り多くするための補助的なサプリメントである。
ここで一つ、小説選びに関して私のオススメの方法を伝授しよう。家か仕事場からほとんど出ず、小説しか書かない小説家の本は読むべきではない。
そんな者の文章を読むくらいだったら、酒場に毎日入り浸って人と話していたり、放蕩の限りを尽くす碌でなしの文章を読んだ方が余程得るものがあるだろう。
自分自身が中身の詰まった人生を送っていないのに、どうして豊かなものを書けるというのだろうか。無い袖は振れないというやつである。
これは人生における知恵に関しても同じだ。実生活で何度も難しい判断に直面し、そうでなくとも常に生きる上での選択肢について思考を巡らせ、その都度学んできた経験がなければ、何か実りのあるものを書くことは出来ないだろう。
純粋な理論の積み重ねで何か価値のあるものを書くことが出来るのは、理論物理学や数学といった特殊な分野に限られる。実際、科学的な文章ですら、実験という名の実際的な経験に基づいたものでなければ、価値を持たないといえよう。
かく言う私もこの点は忘れてはならないと常に意識するようにしている。
毎日、本を読んだり文章を書いたりするが、その何倍も実際的な活動に費やす時間が多くなるようにしている。私は書きたい時にのみ書くようにしているが、そもそも日々の実際的な行動がなければそうした欲求も出ないように思う。
一方で、確かにメインは実生活における考えや感情だろうが、食事に味付けがされていなければなんとも食べづらいように、我々の生に関わる物事を言葉で表したり、表されたものを取り入れたりしないと味気ないように感じるのも確かだろう。それは無くても特別困るようなことは無いが、あった方がこの人生をより深く味わえる調味料のようなものなのかもしれない。
裏を返せば、書いても人生のより深い味わいを感じられなくなった時が、私が筆を置くべき時と言えるだろう。

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