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ミル『功利主義』第3章における「自発的な抽象化」とは?

 インディーズ電子書籍出版社である八不から、奥田伸一によるミル『功利主義』の新訳が出ていたようです。研究者ではない訳者による新訳とのことで、近いうちに読んでみようと思うのですが、その前に気になるツイートを見かけました。

 『功利主義』第3章のこの箇所における「abstraction」を「脱俗」と訳した例があることは聞いたことがあったのですが、なぜそう訳されたのかわからないままになっていました。辞書に「abstraction」の意味として「脱俗」と記載していた例があるという指摘はたいへん勉強になりました。
 しかし、「abstraction」に「脱俗」という意味があるからといって、「自発的な抽象化」という近年の訳が間違っていることになるのでしょうか。

「脱俗」説の2つの根拠

 サンプルの中で奥田が示している根拠は、以下の2点です。

  1. 「自発的な抽象化」をすることで「人が社会の一員であると想像しなくなる」ということの意味が不明瞭である。

  2. 「脱俗」と訳すことでより自然に解釈をすることができる。

 後者については、それほど有力な根拠でないと考えます。「abstract」の意味として「脱俗」を記載する辞書は少ないようなので、まれな用例だと考えられます(『プログレッシブ英和辞典』も、第5版では記述を削除しているようです)。ミルが哲学者であることを考えると、他の条件が同じであれば、哲学用語としての「abstract」の意味(つまり抽象)で解釈したいところです。
 では、前者についてはどうでしょうか。この文の冒頭にある「社会状態」(social state)という語を見たときに、ミルが想定していそうな議論として真っ先に思い浮かぶのは、社会契約説だと思います。ホッブズやロックのような社会契約説の思想家たちは、人々が社会に属していない状態(自然状態)を想定し、そこからどのようにして社会状態への移行がおこる(ルソーの言葉を使えば社会契約が結ばれる)のかを考察しました。この議論はとても有名なものなので、ミルにとっても当時の読者にとってもなじみ深いものだったはずです。
 このことを踏まえた上で「abstraction」の議論に戻りましょう。ホッブズやロックが考える「自然状態」は、抽象的な推論に基づく想像上のものであり、そこで人々は社会に属さない存在であるとされています。「voluntary abstraction」の具体例として社会契約説における自然状態論を想定すれば、「抽象化」という意味で解釈してもうまく意味が理解できるのではないでしょうか(voluntaryの訳は山本・川名訳の「自発的な」よりは関口訳や伊原訳の「意識的に」のほうが意味がとりやすいと個人的には思いますが)。

『論理学体系』第6巻8章における「抽象的方法」

 これだけだとただの思いつきだと言われてしまいそうなので、『論理学体系』に関係のある箇所がないか探してみました(『功利主義』や『自由論』の記述は、それ以前の大著である『論理学体系』における考察を踏まえて書かれていると言われています)。すると、第6巻8章「幾何学的あるいは抽象的方法について」の中にホッブズについての記述があることに気づきました。

 第一に、ここ〔引用者注:抽象的方法をとる思想家の例〕に挙げてもよいのは、その政治哲学の原理として、政府は恐怖に基づいていると仮定している人々、すなわち、各人相互の恐怖心が最初に人間を社会状態に至らせ、いまだにとどまらせている動機であると仮定している人々である。政治に関する初期の科学的研究家、とりわけホッブズは、自分たちの理論の基礎として、暗黙にではなく公然とこの命題を仮定し、それに基づいて完全な政治哲学を築こうと企てた。

J・S・ミル『論理学体系4』、江口聡・佐々木憲介編訳、京都大学学術出版会、2020、p.250

 ここでミルは、社会的事実を扱う方法のひとつである「幾何学的あるいは抽象的方法」を採用する思想家の例として、ホッブズを挙げています。この箇所を踏まえれば、「抽象化」の具体例としてホッブズ(を含む社会契約説の思想家)を想定して解釈することは正当化されるのではないかと思います。

おわりに

 この記事では、『功利主義』第3章における「abstraction」の具体例として社会契約説における自然状態論を想定することで、「抽象化」という意味でとらえても十分に解釈ができるのではないかという解釈を提示しました。
 私が修士論文を書いたころにはまだ『論理学体系』の新訳が出版されておらず、基本的には原文から自分で訳して引用していたため、今回記事を書いてみて引用のしやすさに感動しました。
 電子書籍という形で古典の翻訳を出版するという八不の事業はとても価値があると感じます。今後は旧訳が入手しにくい古典や翻訳のない古典についても翻訳を出していただけると、たいへん助かります。

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