「トランス女性は女性である」という主張は何を意味しているのか
トランス女性が女性スペース(トイレや公衆浴場など)を利用する権利をめぐる対立の中で、トランス権利拡大派による「トランス女性は女性である」という主張に対し、「トランス女性は男性である」もしくは「トランス女性は(狭義の)女性ではない」と主張することで反論しようとする動きがあります。昨日(8/13)行われたzoom討論会「トランス差別を考える」の中でも、経済学者の森田成也が「トランス女性は事実として男性である」と主張する一幕がありました。
森田やその他の登壇者が指摘していたように、トランス女性の権利をめぐる問題については、権利の拡大に否定的であるとみなされたフェミニストが「ターフ」(TERF・トランス排除的ラディカルフェミニスト)であると見なされ、中傷や嫌がらせの対象とされることが問題視されています。「トランス女性は女性である」という標語は、「ターフ」と見なされた人々を批判するための標語として機能しているようです。この標語自体の是非はともかく、それを用いてなされた中傷や嫌がらせについて、それを行った人を擁護することは難しいと思います。
一方で、「トランス女性は女性であるかいなか」をめぐる議論は、かみ合ったものになっているようには思えません。定義をめぐる論争は一般的に水掛け論に陥りやすいこともその原因だと考えられますが、そもそも「トランス女性は女性である」という主張が何を意味しているのか、よく整理しないまま反論がなされているように思えます。
この記事では、「トランス女性は女性である」という主張は何を意味しているのかについて整理を試みたいと思います。その上で、トランス権利拡大派とその反対者の議論がなぜすれ違ってしまうのか、考察したいと思います。
「トランス女性は女性である」とはどのような種類の主張なのか
私たちの行う主張は、一般的に記述的なものと規範的なものに分けられます(「事実」と「価値」という言葉で区別されることもあります)。たとえば、「彼は毎朝納豆を食べる」という文は事実を記述したものですが、「彼は毎朝納豆を食べるべきだ」という主張は、「納豆を食べる」という行為に価値があり、それを行うべきだという規範を表現したものです。規範的な命題は、かならずしも「べき」といった規範を表す言葉を伴うとは限りません。たとえば、「毎朝納豆を食べないやつは日本人じゃない」という文は、ふつう「日本人ならば毎朝納豆を食べるべきだ」という規範を表現しています。
では、「トランス女性は女性である」という文は記述的なものなのでしょうか、それとも規範的なものなのでしょうか。それを発話する人々がトランス女性の権利拡大を目的としている以上、「トランス女性は女性として扱われるべきだ」という規範的な主張をしていると解釈すべきです。これに対し、「トランス女性は事実として男性である」と主張することで反論しても、議論はかみ合いません。それぞれの主張の性質が異なり、応答になっていないからです。
トランス権利拡大派が行っている「トランス女性は女性として扱われるべきだ」という主張は、私たちが従来持っていた「女性」という概念を変更することを求めるものです。したがって、概念への既存の理解(「男性とは男性器を持つ人のことだ」といった理解)を持ち出すことは、反論になっていません。この主張に反対するのであれば、「トランス女性は女性として扱われるべきでない」ということが示されなくてはいけないのです。
「トランス女性は女性である」という主張は極めて無難なものである
トランス権利拡大派による批判への反応が過激なものになるのは、このすれ違いに由来するように思えます。(標語を使う人すべてが上記のような整理をできているかは別として)「トランス女性は女性である」と主張する人がそれによって主張していること、すなわち「トランス女性は女性として扱われるべきだ」という規範的な命題は、極めて無難なものです。一般に、他者のことをその人が望まない仕方で扱うことは避けられるべきだと考えられるからです。
トランス女性とシス女性の両方を女性として扱うことは、2つの間に何の違いも認めないこととは異なります。本当に何の違いもないとすれば、「トランス女性」「シス女性」という区別自体が理解不能になってしまいますし、トランス女性が抱える特有の問題(たとえば差別意識)を無視することにもなりかねないからです。したがって、「トランス女性は女性である」という主張を受け入れたとしても、非トランス女性を指す言葉がなくなってしまうことはありません。「シス女性」と呼べばよいだけだからです。
このように解釈すれば、「トランス女性は女性である」という主張は極めて穏健なことしか意味しないことになります。トランス権利拡大派による批判者への応答が過激なものになりがちなのも、無難な主張しかしていないはずなのに、それに対して強い反発を受けているからなのかもしれません。
トランス権利拡大派が自らの主張を整理し明確化すべきであるのと同様に、それを批判する側も相手の主張を理解しようと努力すべきです。そうしなければ、相手の言っていないことを批判する「わら人形論法」に陥ってしまいますし、論争自体が意義の乏しいものになりかねないからです。反論は、相手の主張を最良の形で解釈した上でなされるべきです。
実質的な対立点はどこにあるのか
では、トランス権利拡大派とそれに対する反対派との対立点はどこにあるのでしょう。すでに論じたように、「トランス女性は女性として扱われるべきだ」という規範は、とりあえずの(他の考慮によって覆されうる)規範としては穏健で、否定しがたいものです。本当の対立点は、「トランス女性はどこまでシス女性と同じように扱われるべきべきなのか」という点にあるはずです。
トランス女性がシス女性と異なる扱いを受けるべき場合があることは、トランス拡大派にとっても明らかであるはずです。先述したように、トランス女性の受けている差別の現状を考えられば、トランス女性をシス女性と区別して扱い、その差別の解消を訴えることは必要であると考えられるからです。
その上で、女性スペースの問題に関してトランス権利拡大反対派が懸念しているのは、主に以下の2点だと思います。
トランス女性が女性スペースに入れるようになることで、トランス女性のふりをしたシス男性が性犯罪を行う可能性があること
男性の身体的特徴を持つトランス女性が女性スペースに入れるようになることで、シス女性が安心して女性スペースを使えなくなること
前者については、もしトランス女性が女性スペースに入れるようになることで性犯罪が大幅に増えることが確実であるのだととすれば、トランス女性をシス女性と同じように扱わない根拠になるかもしれません。しかし、単に「性犯罪者の多くは男性である」「過去に女装をして女湯に入った性犯罪者がいる」ということを指摘するだけでは、トランス女性が女性スペースに入れるようになることで性犯罪が増える証拠にはなりません。本当に性犯罪が増えるのかについては、実証的に検討される必要があると思います(トランス権利拡大派は、海外のデータをもとに性犯罪が増大することはないと論じているようです)。
後者については、女性が不安を覚えているということだけをもってトランス女性に対してシス女性と異なる扱いをすることは、危険だと思います。トランス権利拡大派によって指摘されているように、人種差別などの過去の事例においても、マイノリティをマジョリティと同じように扱うことについての不安は広く存在したはずです。しかし、それを尊重して差別を温存することが正しかったとは言えないでしょう。とはいえ、性暴力の経験などによって男性の身体的特徴に対して強い恐怖を覚える人々については考慮されるべきだと思いますし、人々の不安を無視して社会のあり方を変えることは、トランスジェンダーに対する差別感情を増幅する結果になりかねません(トランス権利拡大派に対する強烈な反発自体がこの実例なのかもしれません)。トランス権利拡大派は人々の不安を取り除く努力をすべきです。
マイノリティを擁護する側にいつも説明の責任が押しつけられる構造は好ましいものでないことは確かです。しかし、これらの懸念は、無視してよいものとは思えません。反対派と議論し、人々の不安を取り除くという負担は、民主主義社会において世の中を変えようとするときに生じざるをえない必要悪です。それを否定することは、民主主義的で自由な社会の否定というより大きな悪をもたらしかねません。
おわりに
この記事では、「トランス女性は女性である」という主張について、それが記述的な主張ではなく規範的な主張であることを確認しました。その上で、トランス権利拡大反対派の「トランス女性は女性でない」という反論が、うまくいっていないことを示しました。最後に、トランス権利拡大派と反対派との本当の対立点は「トランス女性は女性として扱われるべきか」という点にではなく、「トランス女性がシス女性と区別されるべきなのはどのようなときか」という点にあり、この対立点に関してトランス権利拡大派は議論に応じるべきであると論じました。
トランス権利拡大派に対する批判の多くは、そもそもはじめに主張されたこととずれた主張をしているものが多いと感じます。これは、トランス権利拡大派が「批判者と議論したくない」と感じてしまうことの原因のひとつでもあると思います。しかし、女性スペースについての懸念が存在しているのにもかかわらず、それについて議論がなされないことは、トランスジェンダーに対する偏見を助長することにつながりかねません。トランス権利拡大派は、自由民主主義社会にとって必要なコストを払うべきです。
補足:三浦俊彦「本当の性別についての2つの証明」について
「トランス女性は女性である」という主張に関連して、哲学者の三浦俊彦が「本当の性別についての2つの証明」という発表原稿を公開しています。三浦はこの原稿で、「トランス女性は女性である」という主張は「文字通りの真と受け入れる人は多くない」とした上で、概念分析の手法を用いて「トランス女性は女性である」という主張を反駁しようと試みています。
この反論の方向性が間違っていることは、これまでの議論を追ってきた読者には明らかであると思います。「トランス女性は女性である」という主張は規範的なものであり、真であったり偽であったりする性質のものではありません。それを批判されるために持ち出される哲学的な理論があるとすれば、それは(狭義の)分析哲学の理論ではなく、功利主義や義務論のような規範倫理学の理論であるはずです。「トランス女性を女性として扱うことで社会の幸福が減少する」とか「トランス女性を女性として扱うべきだという格率は普遍的法則として意志できない」といった主張がうまくいくとは思えませんが。