取捨選択が常に訪れる私たちの世界
朝、アラームが鳴る。私はそれを止めようとして、ベッドのシェルフに置いてある目覚まし時計に手を伸ばす。目をつぶったまま停止ボタンを探すも、なかなか見つけられない。嫌々ながらも片目を開けて、音の発生源を探すものの、視力が0.01の私には成す術がなかった。立ち上がって眼鏡を取りに行くことでその場を終えたが、カーテンの間から差し込む光とは対照的に、私の気分はブルーに。こんなんだったら、ピカチュウを育てるのにあんなに一生懸命にならなくてよかったな、壁山のザ・ウォールのスキルを向上させることに躍起になることなかったな、とDSに夢中になった小学生時代を少し憎んだりした、そんな低調な朝を迎えた。
生を受けた時点で、私たちは選択を迫られてきた。何を食べようか、どこに行こうか、眼鏡を取りに行こうか、ゲームをしようかなど、大小問わず、様々に選んできた。それは、自分の人生を生きていて、自分が主人公であるからだ。この国では自分の主権が認められている。自由に、好きに、自分の思う通りに選択、行動して良い。同等の責任を背負うことになるが。まさに、自由の刑に私たちは処されている。自由は一見いい面に見えるが、放任的な一面を持つ。そんなものと死ぬまで付き合っていくことになる。
おそらく、この世の全てを認知することは不可能なことで、そのために私たちは選択することを余儀なくされている。その選択肢はドラクエのように、数が決まっていて、明文化されていればいいが、現実世界はそんなに甘くない。自分で状況を整理しなければならない、かつ選択肢は絞られていない。自分が認識していないものも含めると、無数に広がる。また、決断をする時間、タイミングも迫られ、こちらが準備不足でも決定の判断を下さなければならない。最終的には自分の直感力を信じて、選ぶほかないのだ。その選択も正解なのか、はたまた大不正解なのかもわからない。選んだ道は常に暗闇で、未知数で、全く予見できない。
分岐点に差し掛かった時、私は何を思うだろう。友人は、家族は何を一番に据えて判断を下すだろう。感情の生き物と謳われている私たち「ヒト」は、他者が考えるほど、単純に生きていない。むしろ複合的で、再現性を問えないように生きている。もっとシンプルに生きれたら、ストレスフルな社会なんだろうな。