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特集バーナード・ウィリアムズと哲学史「趣意文」(渡辺一樹)【フィルカルVol.9,No.2より】

バーナード・ウィリアムズ(1929–2003)は卓越した哲学史家であった。オックスフォード大学の古典学部を最優等で卒業したウィリアムズは、「自らは日曜古典学徒だ」と謙遜しながらも、生涯をとおして西洋古典を研究し、当時の所謂「分析哲学」による哲学史の軽視を批判しつづけた。それだけでなく、ウィリアムズの業績の多くは、「哲学史」として分類されるものである。デカルトとプラトンの名を題した著作(『デカルト―純粋探究のプロジェクト$${\textit{Descartes: the Project of Pure Enquiry}}$$』・『プラトン―哲学の発明$${\textit{Plato: the Invention of Philosophy}}$$』)があり、哲学史についての25本の論文を集めた論文集(『過去の感覚―哲学史による論考集$${\textit{The Sense of the Past: Essays in the History of Philosophy}}$$』)がある。また、ウィリアムズのオリジナルな著作とされる業績においても、哲学史は哲学と切っても切れない関係にある。例えば、同時代の大陸圏の多くの哲学者と同様、ウィリアムズの思考はニーチェの圧倒的な影響のもとにあったと言える。本特集における納富論稿の言葉を借りれば、ウィリアムズは「哲学史にもつうじた哲学者なのではなく、哲学史をつうじて哲学をする哲学者である」。

本特集は、プラトン、デカルト、ニーチェ、コリングウッドに触発されたウィリアムズの思考/手捌きを検討している。ここで(自分じしんのものを除いて)各論稿の内容を紹介するといったことは、端的に企画者の力量を超えているため、やめておこう。ここでは、ここに集められた諸論稿が、その哲学史的業績を軽視してきたウィリアムズ研究に新たな光を差すという(比較的)小さな寄与を超えて、哲学史研究、哲学研究にとって価値をもつことを指摘するに留める。ウィリアムズの哲学史的業績は、どこまでも哲学的な問題を取り出そうとするものだからである。ここに集められた諸論稿に共通する洞察をひとつ取り出すとすれば、「内在」である。テクストに対して、真剣に、徹底的に内在して、その声を聴き取ろうとすること。あるいは、「問題を嗅ぎとり精確に取り出す感覚」(納富)、「歴史への誠直な向き直り」(有賀・筒井)、「歴史の内で生きていること」(谷山)。

これは見た目よりもはるかに困難なことである。ひとは味方と敵を分けてしまうものだし、じぶんの立場からしかものごとを観察しないし、あるいは、暗い欲望によって動かされてしまうものである。「敵」が賭けている事柄へと真剣に内在することは、とかく難しい。敵が語ることは「戯言」や「言い訳」に過ぎないし、せいぜい、現実を離れた「夢」のようにしか聞こえない。敵の言葉や行為を断罪することがあまりにも容易いいじょう、それを内在的に読むということは、ときには、自己を変容させる経験を必要とするだろう。事柄をテクスト読解の文脈に限定しないで語れば、内在の試みは、自己の生活と世俗的地位を危うくさせうるとも言える。それでもなお、テクストの声に対して真剣に耳を傾けること。自己を変容させるかもしれない夢を聞くという冒険―この冒険へと飛び出す勇気。対話なるものは、この勇気なくしては成り立たない。テクストを真剣に読むということは、そういうことなのだろう。私はその勇気をもって対決しようと思う。


渡辺一樹 Kazuki Watanabe
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程。日本学術振興会特別研究員(DC1)。 専門は、道徳哲学、政治哲学。主な著書に『バーナード・ウィリアムズの哲学─反道徳の倫理学』(青土社、2024年)。主な論文に“Morality as Misconception of Life: A Defense of Bernard Williams’ Critique of the Morality System”(Tetsugaku: International Journal of the Philosophical Association of Japan, Vol. 8、近刊)などがある。

note掲載のため最低限の修正を加えました。(フィルカル編集部)


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