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自己成長と共に変化する哲学の思想

1. はじめに
 哲学の中で「成長」と「成熟」は、個人の価値観や考え方を大きく変えていく重要な要素だと思います。私も、自分自身の成長とともに、かつて抱いていた哲学的な概念に対して違和感や疑問を抱くことがあります。その代表例が、マズローの欲求段階説です。特に3段階目(社会的欲求)と4段階目(承認欲求)に対する考え方において、私はこれらを克服したと感じている部分があります。これについても、自分が成長した結果、得られた感覚です。
 しかし、まだ成長の途上にいる今の自分が未熟だからこそ、このように感じているのかもしれないという疑念も同時に抱いています。さらに成長することで、やはり元々のマズローの欲求段階説に落ち着く可能性もあるのではないかと考えているのです。
 自己成長とともに、私の哲学や考え方はどのように変化していくのかを考察してみたいと思います。

2. マズローの3,4段階目の克服
 マズローの欲求段階説は、非常に有名な理論です。既に何度も取り扱っています。

 簡単にマズローの欲求段階説を紹介すると、まず生理的欲求、安全の欲求が満たされて初めて、人は社会的欲求や承認欲求に向き合うとのことです。さらに、その後に自己実現欲求、そして晩年に追加された6段階目である「自己超越」に到達するとされています。
 私自身は、3段階目の「社会的欲求」や4段階目の「承認欲求」について、現段階では必要ないと感じています。私は他者からの承認や評価に頼らず、自分の評価によって大きく自己肯定しているからです。むしろ、他者の存在からある程度自由になることこそが、私にとっての幸福の鍵だと信じています。人との関わりを避け、自分の目標や成長に集中できることが、私の幸福感を高めてくれます。

3. 克服か未熟か: 自己成長の道半ばの疑問
 しかし、ここで私は一つの疑問にぶつかります。それは、私が「3,4段階目を克服した」と感じているのは、単に私がまだ未熟であり、成長途中にいるからなのではないかということです。私が自己成長の途上にいる今は、他者との関わりや承認が必要だと感じないのは、自分自身の成長に集中する必要があるからです。
 なぜなら、私がコントロールできるのは「自分」だけだからです。他者の評価や意見に振り回されることなく、自分の成長に集中することが、私にとって効率的で効果的だと感じています。今の私は、他者の存在が成長の妨げになるとすら思っています。しかし、これはあくまで今の私の視点です。もっと成熟し、自己成長が完了したときには、他者の存在や承認に対する考え方が変わる可能性もあるでしょう。

 これは成長の一つのプロセスであり、私の哲学はこの先、さらに変化していくかもしれません。例えば、晩年のマズローが自己超越という新たな段階を理論に追加したのも、彼自身の成熟や成長が影響しているのではないかと考えられます。つまり、自分の思想が変わっていくことを予期し、今の自分にとっての「克服」という感覚が、単なる未熟さからくるものではないかという疑問を常に抱いておくことが重要だと思うのです。

4. 煩悩の大きさと利他性への気づき
 もう一つ、私が最近気づいたのは「煩悩の大きさ」と「利他性」の関係です。ある本で「煩悩は小さくするのではなく、大きくすべきだ」という記述がありました。多くの人が、煩悩は少ない方が良い、欲望を抑えることが理想的だと考えるでしょう。それは煩悩によって欲に溺れ、破滅するというイメージに由来すると思います。

 しかし、この言葉はその逆を提唱しています。煩悩が小さいと、自分のことしか考えられず、他者に対する余裕が生まれません。逆に煩悩が大きくなると、つまり、自分だけじゃなくて仲間も満足した方が良い。仲間だけでなくて、周りの他の人も満足した方が良いとなっていくというのです。その考えによって、さらに自分の満足感が高まり、他者にも目を向ける余裕ができます。
 この考えに私は共感しています。たとえば、自分がお腹いっぱいであるとき、他者に飢えておいて欲しいとは思いません。他者もお腹いっぱいの方が良いと考えます。もちろん、私は積極的に他者に分け与えたいとは思いませんが、もし自分に十分なリソースがあるのであれば、それを少しでも他者と分かち合うことはできると思います。リソースが豊富な状況であれば、多少の利他性を発揮しても、自分自身に大きな負担がかからないという考え方です。あくまで、自分が破産しない範囲での利他性ですが、こうした思考は、私自身の成長とともに少しずつ強まってきています。

 これはソフトウェア技術の考え方にも繋がります。ソフトウェアはコピーが容易かつ超絶安価であり、なおかつコピー元の価値が下がりません(ただし、その技術が売り物の場合は、がっつり価値が下がります。相対的に希少性が下がるため)。だから、ソフトウェアは無料であることが望ましいという運動がかつてはありました。今は、知的財産権みたいな意味合いでソフトウェアを開発した人の権利も担保されていますけど。

 別の事例としては、例えば「内集団」「外集団」という考え方があります。人間は、内集団には有効的に外集団には敵対的になります。仲間か敵かということですね。自分の所属が会社だと思っている人は、自分の会社に対して愛着を持ちますし、競合会社は敵なので憎たらしいと思います。東京なら、日本なら。煩悩を広げることで所属も拡張できます。日本どころか、アジア、世界、地球、宇宙(宇宙の次は銀河系とかになるのか? いや、銀河系が先で宇宙が後か?)など拡張することも論理的には可能です。自分の所属している場をどこまで拡張できるか、その拡張をどこまでリアルに思い描けるかによって、利他性の発揮の仕方も変わります。

 また、ボランティアや利他行動が、自己肯定感や幸福感を高めるという事例も数多く存在します。この点も意識しながら、私の中で利他性が単なる自己犠牲ではなく、自己成長や満足感に繋がる行動として捉えられつつあります。これにより、他者と関わることの意義やその限界を、今の段階で少しずつ理解し始めていると感じています。

5. まとめ:今後の成長に向けて
 現時点での私の哲学は、自己成長を中心に据えた非常に利己的なものです。私はまだ道半ばであり、自己を成長させることに大きな重点を置いています。しかし、成長が進み、資本や知識が十分に蓄えられた段階では、他者との関わりや利他性に対する考え方が変わっていく可能性もあると感じています。
 例えば、今は自分自身の目標を達成するために時間を最適化し、自分の行動を効率的にコントロールしていますが、歳を取り、成長のピークを超えた時には、他者に目を向け、次世代にその知識や経験を分け与えることが自然に生まれるかもしれません。現段階では、自分を育てることのほうが効率的ですが、年齢による衰えと共に、(自分と比較して)コントロールしづらい他者に対して教育した方が効率が良いというタイミングは確実に来るでしょう。これは、自己成長の先にある新たなステージであり、マズローが晩年に自己超越を理論に追加した理由とも重なる部分があると感じます。

 自己成長とともに変化する私の哲学は、今後も新たな発見や気づきを伴いながら進化していけるかもしれません。そして、その過程で得られる洞察を大切にし、自分自身の生活や価値観に反映させながら、より深い自己理解と他者理解に到達したいと思っています。
 それこそ、かつては文字を学ぶことは高尚で紙は貴重だったため、一部の人間しか思想を残せませんでした。しかし、現代では誰でもどんな量でも文章を簡単に作成して、ネットに投稿することで拡散も容易です。今の時代だからこそ、深まる哲学もあると思うのです。それを信じて、楽しみながら自分らしく生きていきたいと考えています。


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