努力や頑張ることに意味はないのかについて本気で考えてみた
何かを決意してがんばってみる。
そんな経験、だれしも1度や2度くらいはあるでしょう。
僕にとってはサッカーがそうだったし、今提供価値を日夜上げていこうとしているコーチングだってそう。
昨今、忌み嫌われる「努力」なのかどうなのかはさておいても、頑張ってきたのは事実としてある。
誰かとの比較、成功しているとの比較において大したことないと言われることはあるのかもしれないけれど。
よく、努力は夢中に勝てないと言われる。
この言葉は、おそらく事実だろう。
努力を努力とも思わず、日夜時間と労力を何の苦も無くかけられて楽しくやれたらどんなに良いだろうか。
そして、この言葉に、何人の心が折られ、頑張ることをやめさせていったのだろう。
いや、そうだ。
止める選択をしたのは本人だ。
そうやって言われる程度の気持ちだったんだろう。
きっとそういう反論があると思う。
そして、これもまた正論と言えるだろう。
だけど、この努力にしても夢中にしても、表面的な表現に囚われてはいけないと思う。
どちらの態度であったとしても、その根底には、「価値がある」と信じ、大切にしている何かがあるわけでしょう。
だから、がんばろうと思う。楽しいと思う。
心の動き方は千差万別でしょう。
だから結局、努力を努力と思っているうちはダメだなんだと言われるけれど、別に努力そのものに価値があるわけではないのだ。
むしろ、その努力の裏側こそ重要で、そうやって努力をしてまで大切にしたい何かがあるってことにこそフォーカスをあてたい。
努力を外から否定されてやめてしまうのは、本人が、大切にしたい何かを忘れてしまっているか、価値を本人が認められていなかったかのどちらかでしょう。
報われるかどうかとか、成果につながるかとか、もちろん頭を使って成果が出るように取り組んだほうが良いに決まっている。
だけれども、結果的に報われなかったとして、「無意味だった」「価値がなかった」とするのはどうなんだろう。
人生において、人生をかけて努力をしようと決心するほど、大切な何かに出会えたことは価値ではないのだろうか。
まわりからはみじめで、無意味で、どう考えてもコスパもタイパも悪い、バカだの無能だのと言われることだったとしても、本人は確かにそこに価値を見出したのだ。
子どもなんかは、本当に大人からみて意味のわからないことに夢中になっていたりする。
これを否定するのはめちゃくちゃ簡単なことだ。
だけど、それは大人である我々の視点にすぎない。
本人にとって、そこには大切にしたい何かがあるのかもしれない。
そういう視点をちょっとでも持っておくことは、人との信頼関係を築くのにとても重要なことだと思う。
自分に対してだってそう。
大切にしたいことがあったんでしょう。
だったら、それを自分が大切にしないで一体どうするというのか。
過去、色んなことを僕は諦めてきた。
時に外からの見え方を言い訳に、時に、人から言われたことを言い訳に。
大切にしたかったことがあったはずなのに、それを自ら捨ててしまった。
そんなことは、著しく自己信頼を下げる行為だ。
こういうことを繰り返していると、いつしか、自分が大切にしたいことが本当にわからなくなってしまいかねない。
まわりの声を遮断し、いかなる条件もいったん取っ払って考えてみたときに、大切にしたいことはなんだろうか。
そのために投じる努力や頑張りは、結果のいかんにかかわらず、事実として価値あるものだと思う。
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