タメライセン
こころが傷を負う、という。
心に実体はないから物理的に傷つくことはなく、傷口から血を吐きだすこともない。「傷」はあくまでメタファーだ。実体をもたないから「傷だらけだ」と気づいた瞬間に、心は傷だらけにもなれる。
ひさびさに、今朝はミルクティーを飲んでいる。珈琲豆が切れていた。いまは一時帰国中で実家にいて、ミルクティーの入った陶器のコップはムーミン柄の十年もので、よくみれば細かい傷やひびが無数に走っている。この傷は物質的だけれど血を吐きだすことはなく、いやこの目には映らないだけで、コップの身になれるなら本当は血を流しているのかもしれない。そのときぼくは冷血で、「血」は痛みのメタファーだ。
永代橋、大正十五年
ああ、いま傷だらけなんだなと気づく。けれどもそうした気づきの源泉には、関係性への欲望が多かれ少なかれひそむから、自己憐憫にひたるのは大概にしなさいなとも、よくおもう。他人や世界をダシにした自己正当化のさきには何も開けない、とまではおもわないけれど、そこで吸う空気に興味がない。
夜の空気: http://twitcasting.tv/pherim/movie/267352459 (広島の禅僧 吉村昇洋さんと夜なか散歩 @永代橋・豊海橋より)
輪郭。ためらい線を幾度も引く。何本も重なるその線は、素描が下手であることの証として笑いの種にもなる。けれどもどうかな、実体としての輪郭は存在しない。存在しないものをあるのだというときに、何の躊躇も感じないのが良いことなのか、どうなのか。信をおく直観も磨き抜いた技術も振る舞うあて先しだいでは、単なる愚かさ浅薄さの表明にしかならない。ためらい傷をぼくはもたない。
豊海橋、昭和二年
食器や道具は無数に傷つくことで、しだいに手に馴染んでゆく。新品にはない深さと幅を具えていく。
ためらいはある。描線は数えきれないほど重ねてきた。けれども稀に、これしかないという線が走りだす。それはもう奇跡のような一本で。この指さきから生まれるその一本が、ぼくの意思とは無関係に走っていく。そういうとき、道具でいいなとおもう。つかい古された、ただの道具がいい。
意思は血を吐くのだろうか。
南高橋、昭和七年
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