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メガロポリスと化したバンコクでの日々と、立ち寄った万国の片隅でゆれうごめくよしなしごと。おもに移動してます。
映画にまつわるメモランダム。かならずしも作品単体の感想文や映画批評を志向してはおりませぬ。
現代の都市生活にあってリアルへのとば口は、都心の閉鎖空間にこそ開く。ふだんは気にもしないブロック塀を抜ける朽ちかけた木扉や、マンション地階のごみ収集場から地下へと降りる階段の先で、真実はつねに口を開けている。そこは精霊の現れぬ森であり、自我の輪郭は森奥でどろりと溶けだすときを待っている。 線路際まで迫るスラムを列車が走り抜ける光景は、いまやバンコク近郊の観光資源になって久しい。東京以上に超高層化したバンコク都心部でも幾らかはまだ残っていて、プラープダー・ユンの短
とめどなくイメージや言葉があふれ出てくるので、 幾らかを書きつけておこうとおもう。 映画について。ミニシアターについて。映画をめぐる人々と言葉について。 きのう3日目を終えた、全国18館のミニシアター連携企画『現代アートハウス入門 ネオクラシックをめぐる七夜』。 (公式HP: https://arthouse-guide.jp/#theater ) 第1夜が『ミツバチのささやき』で、第2夜が『動くな、死ね、甦れ!』。濱口竜介や三宅唱、夏帆らが登壇し、1
“子山羊をその母の乳で煮てはならない” 出エジプト記23章19節 ある男の死をきっかけに、ベルリンで彼が愛したパティシエと、エルサレムに暮らす彼の妻とが出会う。映画『彼が愛したケーキ職人』はユダヤ教の食物規定コシェルが鍵となり、流麗な音楽が情感の浸透圧を高める秀作で、性的マイノリティのドイツ人がイスラエルで身を忍ばせることの史的な暗喩性が、リアルな隠し味として効く。 エルサレムの路地にたつ一軒のカフェが本作の主舞台となる。ベルリンでケーキ作りに精を出す若いパティシエ
さうしてこの人気のない野原の中で、 わたしたちは蛇のやうなあそびをしやう、 ああ私は私できりきりとお前を可愛がつてやり、 おまへの美しい皮膚の上に、 青い草の汁をぬりつけてやる。 (萩原朔太郎 「愛憐」) 闇を厭い、光を求める。生存本能がそう欲する。闇を恐怖する。真の孤独は光からこそ生じるのに。視野へ見とめたわずかな昏がりを闇と錯覚し、ただひたすらにそれを恐れる。その闇は影であり、影のつくる輪郭だけがあなたなのに。だからあなたは恐れている。そうでしょう? 現に
目覚めの小一時間を、ふだんより大切に過ごす試み。として、まずは丸ごと執筆作業に充ててみる。手洗いやコーヒーを淹れるなど最小限の作業のほかは、寝覚めの空白のまま言葉の空白にただ向き合う。これまでにもたぶんくり返し思い至ってきたことだけれど、この作業には見通しがなく、キリもない。井戸から水を汲みだしつづけるようなもので、湧きでるかぎりいくら汲みだしても際限はなく、いつ水が涸れるかもわからない。ただ近頃ようやくわかってきたのは、概して言うならこの井戸汲みを怠るとこの自分は生きなが
マリファナはタバコや酒に比べ有害か、という議論をたまにみるけれど、状況や属す社会により害の定義は変わるので当然どちらともまずは言える。即効性の観点からは砂糖こそ、お手軽さも込みでマジックマッシュルームと並んでヤバさの極みと個人的には感じるけれど、中毒者が多数派を占める社会ではもちろんのこと中毒である状態が「健全」になる。また依存性や紊乱性の観点からアルコール摂取の社会リスクこそヤバヤバなことは現に禁じる国や文化圏が今なお多いことや、日本なり米国なりでのアル中の位置
2017年春から日本公開されたこのマレーシア映画ほど、奇跡の傑作という形容がふさわしい作品はそう多くない。インディペンデント映画の常で公開規模が小さく知名度は低いながらも、劇場を訪れた多くの観客が深く感動し、鑑賞後は少なくない人が生涯の一作に数えあげる。これが大げさな表現でないことを、実際に観てぜひとも確認していただきたい。 映画『タレンタイム~優しい歌』は、ある高校での音楽コンクール開催の過程を描く。マレー系、中国系、インド系、英国系など多人種・多文化混淆のマ
今回の香港・深圳滞在は、域内のキリスト教会取材が主目的となる。 そのうえで自身の抱える障害は主に2つ。 ひとつには、広東語も北京語も喋れないという困難。 ふたつ目には、(社会的ポジションとしての)信仰をもたないという困難。 これらはぼく個人が一方的に抱えている困難で、したがって乗り越えたければ勝手に乗り越えろという話に過ぎない。しかも乗り越えて何の得があるのか、常識的に考える範囲ではよくわからない。ただ取材相手からみても「そんな人間がなぜわざわざこの場に?
二階建てバスの二階の先頭席は、事故のとき一番死ぬから香港人はあまり座らないんだよ。 嬉々として先頭席に陣取ったぼくの隣に腰をおろして、そう教えてくれたのは誰だったろう。美蕾かな。いやdelphineか。はっきりと思い出せない。隣席からこちらをのぞき込む、いたずらっ子のような瞳の光と声の反響だけが脳裡によみがえる。 窓外は雨のぱらつく濃い曇り空で、弾丸道路がランタオ島の北側を貫通していく。こうして香港へと降り立って、九龍城砦の間近にあった啓徳空港を思いだすのも今
今から半世紀前の1961年、元ナチス親衛隊将校を被告とする裁判が、全世界の注目を浴びていた。被告の名はアドルフ・アイヒマン。ヨーロッパ各地から絶滅収容所へのユダヤ人移送を統括したアイヒマンは一貫して、「命令に従っただけの歯車の一人」であったと無罪を主張し続けた。映画『アイヒマン・ショー/歴史を映した男たち』は、イスラエルで開廷されたこの裁判の中継放送を実現させたテレビマンたちを描く作品だ。 600万人に及ぶ犠牲者を出した、ナチスのホロコースト政策。ドイツの配色が濃くなり
香港。 “世界一危険な国際空港”として知られた啓徳空港が健在の1997年、初めて当地へ降り立った。99年間の租借を完了し、英国から中国への返還が行われたまさにその年、香港の街はそこらじゅうに異様な興奮と不安が渦を巻いていた。 九龍の高層建築すれすれを旅客機が飛んでゆく様は、着陸寸前の機内の窓から見るだけでも想像以上の迫力で、シートベルトをはずす前からぼくのテンションは最高潮に達していた。返還に合わせ九龍城の本体はすでに破壊されていたけれど、あの殺伐とした凝縮空
深圳への滞在は、思いのほか衝撃的な体験となった。 中国のキリスト教徒は推定9000万人、世界最大のキリスト教人口をもつ国になる日も近いとされる。近年の急増傾向を底で支えるのが共産党政府非公認・非合法の礼拝を続ける「家庭教会」の存在だ。知人の仲介を得て、これら家庭教会を幾つか訪ねてきた。 今回の香港取材旅行はこれに限らず、人間の本来性をめぐる再考の機縁と化す予感がある。むやみに自分を忙しくしているきらいもないではなかった。が、行って良かった。 なにを信じて
"Qu'est-ce qu'on a fait au Bon Dieu?" 「私たちは神さまに、何をしてしまったの?」 そんなオリジナル・タイトルをもつ、異宗教間での国際結婚をテーマとした上質のコメディ映画が、邦題『最高の花婿』として今春公開された。 主人公のヴェルヌイユ夫妻は、敬虔なカトリック教徒。フランス、ロワール地方の閑静な田舎町に暮らす夫妻には四人の娘がいる。うち三人の娘がそれぞれアラブ人、ユダヤ人、中国人の男と結婚、せめて末娘だけにはカトリ
あまりにも壮絶で無惨。 観客席の暗がりからは、ため息や静かな悲鳴が終始やまなかった。映画『シリア・モナムール』は、内戦下のシリアを描くドキュメンタリー作品だ。千人におよぶ市井の人々の携帯電話やタブレットにより撮られた動画の数々を、カンヌ映画祭でのスピーチが原因でシリア政府から命を狙われ、パリで亡命生活を送る監督が編みあげる。 展開する生々しい動画の連なりに重ねて、シリアへ戻れない苦渋を監督が語るなか、中盤に入ると新たな語り手としてクルド人の女性シマヴが現れる。紛争地
ことばは物事の核心をあぶり出しもすれば、覆いかくしもする。 たとえば語としての「絵画」を「絵画」としてフレーミングすることで、あるいは顔料を生の物質ではなく色の「名」により記号化することで豊かになるものと、失われるもの。映し堕されるもの、似て非なるもの。 オーストラリアの先住民アボリジニのもつ神話的世界観を表すことばに、ドリーミング、ドリームタイムがある。誤解をおそれず簡略に説明すれば、先祖より受け継いだ天地創造の神話をもとに人の織りなす象徴行為をドリーミン
モニターを前にすると、寸前まで体感したようには言葉が出なくなる。 茫漠とした想念のなかで言葉により確定し、論理と音律により展開させる思考はしかし立体的多次元的で、文章は単線的だ。それは一筆書きで彫像を仕上げるようなものだから、この思考をこの文章へと引き写す試みは端から不可能“的”になる。途方に暮れる。だからこそやり甲斐はあるとも言える。表現が個的にならざるを得ないのは、析出される思考の形によるというより、析出の過程で加えられる鑿の痕跡こそある意味では、表現の本体だ