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彼女の瞳の内なる怯え

 

 レトロという単語を、初めて意識したときのことを覚えている。

 それは小学校の高学年時で、その言葉の存在とその意味を母から聞かされた。まだ母を見上げていた幼い頃で、家の電話はプッシュホン式で、カセットテープやVHSテープも現役で、テレビはブラウン管で箱の裏ではファミコンがカニ挟み式の電極でつながっていた。それらすべての光景が、いまや脳裡でレトロ調を帯びている。

 単に「古い」ことと「レトロ調」との違いのひとつは、過去の良い面だけをすくいあげようとする、レトロの語がはらむ物静かだが固い決意の姿勢にある。セピア色の思い出は、世なるすべてにセピア色フィルターを強制し、ネガティヴな事象を含むあらゆる生々しさを濾し取ることで抽出される。たぶんそう遠くない将来、ネットを開く際に鳴ったダイヤルアップ接続の機械音「ピーーギュルギュルゥキーーガガッ」に切なさを覚え、ふと涙する日が来るのだろう。


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Vivian Maier


 なんのかんので枯れつつある昨今に比べると、合コンの類に誘われることのついぞなかった自身のまわりでも、学生の頃は《惚れた腫れた》の話題が常に交錯していた気がする。それで「どんな女の子が好みなの?」という定形質問の派生に「好きな女優って誰?」というのがあって、ティア・レオーニとかマリ=ジョゼ・クローズとか、ぼくは本気で憧れていたけれどまわりの誰も知らない名を答えるたび初対面の女の子を沈黙させてきた。周囲に合わせ後藤久美子とか菅野美穂とか言えば良かったのだろうけれど、そんな時にほとんど唯一通じたのはケイト・ブランシェットで、しかし会話の文脈からは自然に“好みのタイプ”がケイト・ブランシェットなのだと受け取られてしまう。これはこれで違和感しか生じない。年上好きなんだぁ、意外!とか言われてもただ困る。どっちも好きだ。

 まずは、佇まいが好きなのだろう、ケイト・ブランシェットに特有の。《わたしの住むべき世界はここじゃない》感を漂わせつつも、戦う姿勢を失わない立ち姿。《望んでいたのはこれじゃない》感を浮かべつつも、気丈さを保とうとする前傾姿勢。鎌倉武士のようじゃないですか。武士は喰わねど高楊枝。


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Ruth Orkin


 有名作に多く出演してきた彼女の履歴中にあっても、こうした資質が『エリザベス』や『エリザベス:ゴールデン・エイジ』に顕著なのは言うまでもないとして、近作ではウディ・アレン監督『ブルージャスミン』の都落ち貴婦人の演技など世界中で賞賛を浴びたばかりだし、『ミケランジェロ・プロジェクト』のナチス占領下ルーブルでドイツ軍人に従順なフリをしながら美術品を守ろうとする秘書役でもよく活きていた。日本での知名度は恐らく低いが、反骨のアイルランド人記者を演じた『ヴェロニカ・ゲリン』や、麻薬により夫を失い教え子が破滅させられて麻薬王の暗殺を狙う『ヘブン』での英語教師役も、個人的にはとてもグッと来た。ググっと。

 腰の据わった強い視線の奥に一瞬浮かぶ、いまここに自分があることそのものへの怯え。いま初めて言葉になったけれど、この《強い視線の内なる怯え》こそぼくのなかで他の女優と一線を画した存在に、ケイト・ブランシェットが居座りつづける理由なのだろう。こんな女性とつき合いたい、というような話ではそれゆえまったくない、というか恐るべき事態だそれは。

 そして彼女の主演新作『キャロル』では、まさにこの《視線》から物語が始まってゆく。



 マンハッタンの百貨店で働くテレーズが、ひとりの貴婦人の眼差しに囚われる。文字通り、虜になる。1950年代ニューヨークの華奢というより少し煙がかった空気感、衣装やインテリアの仄かにくたびれた質感が見事。映画『キャロル』ではそうやって、クリスマスシーズンの高級百貨店おもちゃ売り場での出会いから物語が始まるのだけれど、戦後間もない石造りの大都会ならではの煤けた感じが本当によく再現されている。ふとヴィヴィアン・マイヤーの写真が想起されたが、監督トッド・ヘインズは実際にマイヤー作品を参考にしたとか。マイヤーの他にも、50年代以降のニューヨークを撮りながら、黄金時代へと加速する街が生む喧騒や熱情とは別様の姿態に焦点を当てつづけた写真家たち、たとえばソウル・ライターとかルース・オーキン。

 もう存在しないがかつてはあった光景を、セットや小道具によってではなく専らデジタル処理によって現出させる製作技術。この技術の目覚ましい発展に、ぼくが心底唸らされたのはたぶんデヴィッド・フィンチャーの『ゾディアック』(2007)が最初になる。そこではすでに技術は見せつけるものでなく、観客の意識に及ばないことが目指されていた。その方向性は同時期の日本で好評価を博した『ALWAYS 三丁目の夕日』や三谷幸喜『ザ・マジックアワー』の対極に位置するもので、この試みが達成された暁には、視覚的な時間の差異というものが完全にフラット化されてしまうと心中戦いていた。現にいま、そうなりつつある。『ジュラシック・ワールド』に登場する恐竜がフェイクであることは、もはや生の視覚によってではなく、恐竜という生き物は現存しないという情報によってのみ判断される。違うだろうか。

 『キャロル』においては誰かの肩越し、窓越し、鏡越しのアングルがくり返し登場する。窓にはしばしば異なるもう一つの光景が映り込む。内と外。自然と人為。明と暗。肩のこちらより眼差す我ら、鏡の奥から見据える誰か。


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Saul Leiter


 ところで話がまったく変わるけれど、『キャロル』は女性同士が惹かれあう物語なので、日本では恐らく「同性愛」を描く作品というレッテル張りも宣伝等で進行しているかもしれない。けれどもこうしたカテゴライズが観るか否かの選別基準とされてしまうのはもったいない、と常々おもう。むしろこの場合であれば性差を問う視線をいったん等閑に附し、周縁要素を観る試みが効くはずだ。これは同性愛だけでなく、マイノリティ主題の多くの映画に言えること。

 こう書くと主題の軽視とか、同性愛の軽視とかとられる可能性もありそうなので付け加えれば、いまこうして映画『キャロル』をめぐって文章を書き連ねるいとなみのうえですら、必ずしも『キャロル』という映画そのものが不可欠の要素なのではない。それゆえ今後この場に挙げていくだろう文章たちも、映画の感想文として読むなら落第点しか与えられない類のものになるだろう。けれども普段からぼくはそういうスタンスでものを言う人間だし、そういう姿勢でものを観ている。それは意図的であれ無自覚にであれ、選択的に何かから目を背けることとは質が異なる。

 たとえば、心惹かれる相手がたまたま同性であったことと、自分は同性愛者だと意識することのあいだには距離がある。~を好きだとおもう/志向する/信じることと、~者だと自覚することとでは、心の働きかたが違う。後者をめぐる言葉や思考の流れに対して、比較的ぼくは冷淡な人間なのだと最近おもう。

 そういえば、夢に小学校の教室や幼い頃に住んだ家の居間が現れるとき、そこに置かれたテレビがブラウン管であることに、ぼくはレトロ感を抱いていない。夢においては判断の根拠となる情報の構成素子までもが時間的なフィードバックを許し得るなら、映画館の暗がりでこの心の内に起きている出来事は、毎夜寝床で経験している出来事にきっと日々近づいている。そういう物語をいま観ている。




 


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