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あるアルメニア人の旅路

  

 1915年4月、イスラム世界の覇権国であったオスマン政府により、トルコ東部アナトリア地方ではキリスト教徒アルメニア人に対するジェノサイド(民族・集団消滅を目的とする大虐殺)が始まった。この虐殺による犠牲者数は百万人とも百五十万人ともされるが、現トルコ政府はこの事実をいまだ公式に認めていない。映画『消えた声が、その名を呼ぶ』は、この事件によって唐突に妻や双子の娘たちから引き離されたアルメニア人男性、ナザレットが主人公だ。

 「イスラムへ改宗すれば解放しよう。改宗する者は前へ出よ」

 荒野の強制収容所でオスマン兵士がそう宣告する場面がある。クリスチャンであるアルメニア人虜囚たちの間に動揺が走る。背に仲間の罵声を浴びつつ歩みでる者、踏みだしかけた足を戻す者。運命の選択が為される印象的な場面だ。そこで踏みとどまったナザレットら虜囚たちは、人目につかない僻地へと連行されると順次処刑されてしまう。しかし虜囚の殺害を命じられたクルド兵の躊躇により、ナザレットだけは辛くも生き延びる。

 このとき首へ受けた傷によりナザレットは声を失い、ようやく探し当てた親族から家族の死を聞かされると、生きる気力をも失くしてしまう。その後ナザレットは逃亡先アレッポの石鹸工場で、一労務者として抜け殻のように淡々と日々を暮らすようになる。この日々のなかで立ち寄った映写会場で掛かるチャップリン『キッド』に来し方の想いをかさね号泣するのだが、そこに至る過程で映し出されるアレッポの町並みが極めて美しい。古い石積みの石鹸工場で人々の働く光景の質実さともども、こうした映像感覚もまたこの映画を単なる告発作品ではない傑作へと引きあげている。



 アルメニア人のキリスト教=アルメニア使徒教会は、一般に「正教」と呼ばれることからギリシア~ロシア正教の括りでとらえられがちだが、実は系統がまったく異なってその歴史は非常に古い。古代アルメニア王国がキリスト教を国教としたのは西暦301年で、これはローマ帝国によるキリスト教公認のミラノ勅令313年に先んじる。以来アルメニア人は西にローマやビサンツ、東にペルシャやイスラム諸王朝、北にモンゴルやロシアと大国の狭間にあって常に苦難と迫害に晒され続けるが、その長い信仰の伝統による結びつきは受難をむしろ糧として、離散した新天地にあっても彼らをより強く結束させた。

 映画のなかで主人公ナザレットは、レバノンの町アレッポで娘たちの生存を偶然に知ると、持てる全財産を蒸気船の乗船券購入にあて、彼女たちが住むというキューバの移民街へと旅立つ。しかしハバナのアルメニア人街に着いてみれば、双子の娘はすでに北米へ移住したと知らされる。古代より続く迫害と離散の歴史により、ユダヤ人同様アルメニア人もまた世界中へ散り散りとなったが、このディアスポラ(離散定住)の現状も、本作はこうして巧く取り入れている。



 さて、本作『消えた声が、その名を呼ぶ』を撮ったのは、新進気鋭の呼び声も高いドイツ在住のトルコ系監督ファティ・アキンだ。荒野の凄絶な強制収容所から、古代の香りを残すアレッポの町並み、ハバナ移民街、ノースダコタ雪原の白。灼熱の砂漠から厳寒の白銀世界へ。本作における世界各地に離散したアルメニア人共同体の描写におけるこの転回こそはファティ・アキンの持ち味でもある。

 そしてトルコ移民二世の監督が、現トルコ政府の認めない虐殺の歴史を扱った意味の大きさ。仮に在外の日本人監督が、南京事件をめぐり被害者視点から映画を撮ったと想像すれば、その後に起こる事態も了解できよう。本国トルコの世論では、タブー視され歴史教科書にも載らないこの史実を起点とする本作への批判は強く、虚偽だ、アルメニア人ロビーから裏で資金提供を受けている、など激しいバッシングを浴びるに至った。

 しかしファティ・アキン監督による過去作の系譜を少したどるなら、本作の意図が虐殺自体の告発にはないことがよくわかる。彼が過去の代表作『太陽に恋して』『愛より強く』『そして、私たちは愛に帰る』等を通して繰り返し表現してきたのは、魂の孤立を厳しく迫られる現代物質文明の荒波のなか、人間を己の生に結びつけるものは何かという鋭い問いかけだ。

 そして彼は、彼自身のルーツに依拠して主題としつづけた“ドイツのトルコ移民”問題から近年離脱する。たとえば2012年公開のドキュメンタリー作品『トラブゾン狂騒曲 小さな村の大きなゴミ騒動』では、トルコ東部の古都トラブゾン近郊の村が被ったゴミ騒動をテーマに据えた。大虐殺以前のトラブゾンは長らくアルメニア人の集住地域であり、トルコ人の住む今日でもアンカラの中央政府からは看過されがちな一帯だ。つまりファティ・アキンは過去作から最近作まで一貫して、世のメインストリームからは目を背けられ退けられるマイノリティーの過酷な環境こそを、《人を生に結びつけるものは何か》を問う場としてきたことになる。



 人を生に結びつけるものとは何か。ファティ・アキン監督作に込められたその答えを言葉にしてしまうならとても端的に、《愛》となる。信仰が集団を束ね、愛が個を結びつける。しかしアナトリア半島に住まうアルメニア人全体の実に七割が命を失ったとも言われるジェノサイドを背景としたこの一編が描く愛の形は、「愛こそすべて」などというクリシェにはとても収まり切らない、執拗で熾烈で底の知れない深さを湛えている。

 たとえば内戦状態に陥った2015年現在のシリアを爆撃するロシア機が、トルコ領空でトルコ軍に撃ち落とされる。トルコ領とは言うが、その多くはかつてロシアのコサック騎兵が疾駆した土地であり、オスマン政府に雇われたクルド兵が苦闘した土地であり、また古よりアルメニア文化の花開いた土地であったことを想うとき、降り落ちてうず高く堆積した時間の厚みの下で、なお複雑化をやめない悲劇の様相に言葉を失う。愛は人を幸福へと導くが、同時に愛こそは憎しみの源泉ともなる。時間がなにか物事を真に解決することはあるのだろうか。『消えた声が、その名を呼ぶ』の原題は、ナザレットが首に受けた傷を始め多くの印象的な場面を含意する“The CUT”、“切断”だ。





(本稿は、キリスト新聞2015年12月25日号への掲載記事に手を加えたものです。当該号には他に駐日アルメニア大使への拙インタビューも掲載されています)

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