不幸との出会い方
ここ最近は講演会とか試験とか映画とか見て、考えていることは主にこれだと思う。「不幸との出会い方」について。教育とは、その準備運動のようなものだと強く感じる。
苦楽を共にするという感覚。一人きりではなく、共にするという部分が大切で、そこが欠けている子どもにどう接するかが問題かなあと思う。急に何か悪いことが起きるわけではないけれども、協調性や共感することに期待することが無くなれば、反社会的になることもある気はする。
何を不幸と受け止めるかは人それぞれで、いじめ問題でも同じだけれども、人それぞれの感じ方次第ってやつ。私はどちらかと言えば、タフに生きろよ!って思うけれども、周りの環境をどうにかしてほしいって親心も分からなくはない。愛ゆえに行き過ぎることはある。他の誰にもやってくれないのだから、私がやらなくちゃって思うことはきっとある。
でももっと、いろんな視野で物事が見れないとしんどくなる。何に固執するかを明確にするべきなのに、それをごまかそうとして、いつまでも子どものように扱うのも何だかなあって感じ。怪我をしても傷は治る。傷つけないように生きるには、窮屈すぎる頃合いなのだ。
そういえば、こんな歌もある。令和じゃ聴かないかもしれない(笑)
人生楽ありゃ苦もあるさ
涙の後には虹も出る
歩いてゆくんだしっかりと
自分の道をふみしめて
昔から、そんなもんだと思う。今更、何かを変えようったって疲れるだけだし、学校では言えない、もっと本当のことを教えてあげればいいと思う。それは小難しい知識だけじゃなくって、誰が何を思って、どうやって生きているかって気持ちを伝えてあげればいい。
共感することができれば、理解は必要なくなる。受容できるようになって、人に優しくなれる。世の中にはたくさんのダメ人間がいて、でも支え合ってるから何とか生きている。みんな完璧なんかじゃないから、誰かを支えるために仕事がある。
高校を中退した生徒とか、どうやって見守ればいいのかなって思うけれども、夏祭りで見かけて話しかけてくる奴もいる。こういうのは心配したら際限がないけれども、地域のおかげだなあって思ったりもする。たまにバイト先に顔を出したりして。抱えすぎないように声をかけたりする。
愛にできることはまだあるか
私は採用試験にも見放されているし、転職している身分なので、これが天命として仕事に愛されているとは思っていない。でもそんなものだろう。まずは何かに尽力するものだ。愛されたと感じるときは、きっと何かを自由にできるようになっている。前の仕事のときもそうだったから、何となく感覚は分かる。
誰かに尽くすための愛ならば、時間が全く足りないものだ。でも何かを伝えるために考えるのなら、それは一瞬で、たくさんの人に伝わることもあるかもしれない。たとえば、こういう雑記だったり、映画のような作品だったり。
行き詰ったら、いろんなことに向き合ってみればいい。いろんな価値観に触れて視野を広げればいい。世界は広い。人生も思っていたよりは短い。だから、やりたいことのために生きればそれでいいと思う。
人生涙と笑顔あり
そんなに悪くはないもんだ
なんにもしないで生きるより
何かを求めて生きようよ
悪くはないと思えるように、何かを伝えなくちゃいけない。それが届かない人がいることを、もっと知らなくちゃいけない。でも、それを届けることができる人は限られている。だから目の前の子どものために一生懸命になる。
残業は大体、毎月100時間オーバーで土日もあんまり遊べなくて、仕事もボランティアもするから試験勉強する余裕もあんまり無かったり受からなかったり職としては不安定で現代の奴隷で突然死するかもしれないけれども。何にもしないで生きるよりは、ずっといい死に様だ。月に負け犬だ。
明日 くたばるかも知れない
だから今すぐ振り絞る
只 伝わるものならば
僕に後悔はない
いや、後悔はたくさんある。そこまでアーティストじゃないかな。でもまあ死生観を持って生きれば大抵のことはできるんじゃないかと思ってる。
おやすみなさい。よい8月を。
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