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架空国家 深秦連邦 素案

深秦島の位置関係

日本列島に連なる島と、ミクロネシアのあたりにあった島が衝突、深秦島ができる。チャモロ語系の先住民が南部に定住。7世紀ごろから西日本の和人が入植を始め、北部は律令制に組み込まれた。

深秦島成立の概略図

16世紀ごろ、アジア宣教を目指してキリスト教の宣教師がやってくる。マニラと同じように代名に攻め込むが、返り討ちに遭いサンコロンバーノ(伴院)に拠点をかまえる。後にサンコロンバーノ司教区がおかれた。
同じ頃、北部では室町幕府から足利嫡流の有力者が派遣されてきて、鎌倉と同じように篠浦を築く。篠浦の足利家は後に深秦公方となる。

北部は律令制に組み込まれたが、南部にまで朝廷・幕府の支配は及ばなかった。しかし和人の中でも開拓の野心に燃えるギャングと商人は南部へ入植し、成功者はプランテーションを築いたりガレオン船貿易に参入して巨万の富を得た。また、南部を中心に和人のキリシタンが増加したが、豊臣秀吉が伴天連追放令を発したことをきっかけに、本土とのつながりが怪しくなってくる。

そのあとは分からない。今は独立している。鎖国はせずスペインと交易をして西欧文明を緩やかに受容しながら近代へ向かうことを想定している。

室町時代に深秦公方に任命された足利家が世襲で和人社会の頂点についたまま近世を終える。1820年代に南米植民地の独立が相次いだことを契機として、和人たちもナショナリズムに目覚め始める。その際、足利家が神輿に担ぎ上げられる。その関係で、恐らく深秦連邦の初代国家元首は足利だろう。

近代は日本で大政奉還→王政復古が起こり天皇親政が復活し、天皇を超える国家元首を創造できなかった深秦連邦は、勅令を武器とした日本の外交圧力に屈していく。しかし、大日本帝国は先に近代国家を作っており、かつ多民族国家である深秦を完全に植民地化することができなかった。

結果、皇族や公家と深秦足利家の間で婚姻を結び、深秦足利家を懐柔することで間接的な統治をすることになった。二重帝国状態といえる。
太平洋戦争の際は先鋒を担わされる。ミッドウェー海戦以後徐々に制海権を取られ、1944年ごろ米軍の上陸を許す。米軍独立後、深秦の独立運動家は米軍に協力して独立運動を進め、1945年の終戦から数年間米軍統治が続いたのち、完全な独立を果たす。

戦後は日本の躍進とは対照的に経済が停滞し、社会が不安定になっていく。特に和人の政治独占に批判が高まり、何度か政変が起こる。社会は急速に民主化へ進み、首都が篠浦から???へ遷都された。
1990年代以降は冷戦終結を受けて経済成長が始まり、現在は中国、韓国、台湾と並んでアジア屈指の成長国となっている。

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