日記#7 陸前交通を振り返る(中編)

引き続き陸前交通を振り返る。
昨日は創作の動機から架空仙台誕生までを語った。今日は架空仙台の挫折から現在に至るまでの話をしたい。


仙台産業化という思考実験

架空仙台の方針は仙台を重工業化し、人口を300万に増大させることで大手私鉄 陸前交通を現出させることであった。この状況を作り出すために私は二つの問いを立てた。一つ目は「いつの時点から改変すべきか」二つ目は「基幹産業は何が必要か」である。

一つ目の問いは仙台の産業化を阻害した要因を探る作業につながる。この時点の認識では「あらゆる都市は産業化する可能性があり、産業化の差は歴史の過程において産業化が許されるか阻害されるかの差である」という前提に立って考えていた。この前提に基づく考察の結果、阻害要因は戊辰戦争にあると結論付けた。
仙台藩は戊辰戦争において新政府軍に敗れ、朝敵とされたことから苛烈な戦後処理を受けた。戦後処理の中心となったのは上級武士に対する大規模な資産接収で、これによって士族が軒並み没落し近代経済の担い手が空席となってしまった。士族社会の疲弊によって工業化に必要な大規模なディベロップメントやベンチャーキャピタルを自分たちで行うことが出来なくなり、代わりに政府と五大財閥が開発に参入してモノカルチャー化を進めた。
のちの時代東北大凶作と呼ばれる惨事が起こる遠因もここにあったと言える。私はこのことを知って戊辰戦争が近代化を阻害したのだと考えるようになった。

二つ目の問いは仙台を産業立地論的に評価することにつながった。雇用を生み出すため何かを大量生産したとして、商品が売れなければ意味がない。むしろ、競争力のある商品を作り出せる場所でないと、起業の動機が生まれないはずだ。この問いついて産業立地論と企業史を学んで考えてみたところ、戦前日本の重工業は軍需が圧倒的に大きく、民需は非常に小さいことが分かった。また大都市立地志向が強いこともわかってきた。
この傾向を仙台に当てはめて考えてみると、仙台は大都市に近くもなければ陸海軍の工廠があるわけでもない。海軍工廠は呉とか佐世保といった西日本に多く、陸軍工廠は大阪砲兵工廠と東京砲兵工廠がほとんどの軍用品を生産している状況だったから、仙台で工業メーカーを起業しても近くに納入先がないのだ。この結論は架空仙台を「詰み」に追い込む王手となった。

当時のメモ 仕事の休憩時間に殴り書いた
産業や商業の配置を図にする試み

ここからしばらくは詰みに抗えないか模索してみる時期が続く。
ある時は仙台に軍需を引き寄せればいいのではないかと思い立ち、ロシア帝国との関係を悪化させて酒田に海軍鎭守府を作るだとか、仙台の人間がライト兄弟より早く飛行機の開発に成功するだとか色々考えたが、これまで積み上げた地味な思考とのギャップが大きく採用を見送った。

一方戊辰戦争回避については見通しが立ちつつあったが、テーマの重さが仙台を産業化させて300万人にして楽しむなどという軽薄な遊びと釣り合わないことを意識するようになった。
他の作者を観察していると、こういう局面に対しては、扱う話題を趣味や遊びというカジュアルさに合わせていくパターンが多いように見えるが、私は戊辰戦争や東北史は大事なのだから、創作の方をもっと重くして釣り合わせようと思った。架空鉄道作者と話が合わないことが増えたのは重みに対するスタンスが分岐したためではないかと思う。

挫折と自問

こうして架空仙台は進捗が殆ど出ない時期を迎えた。

考証面では歴史と産業の学習が進めば進むほどコンセプトの矛盾を追及される不幸な状況だったほか、何度か仙台を生で観察したことで、気持ちの面でも違和感が強まっていた。また、無限に拡張する学習領域に嫌気が指していた。つまり、勉強すればするほど自己批判しなければならないのに、それを乗り越えてプロットを作っても違和感のあるものしか出てこないという、全く甲斐性のない状況に陥っていたのである。こんなことをしていてもしょうがない気がして、プロジェクトを畳むことにした。

ただ、陸前交通はプライベートの全てをつぎ込んで取り組んでいたことであり、そう簡単に諦めるわけにもいかなかった。
そこで、このまま続けるか確信が持てない状況ではあるが、こうなった原因を探るため自問してみることにした。そこで見えてきたのは、私の都市鉄道像が人口500万人を超える大都市のそれに限定されていたことだ。
更によく考えると、都市鉄道が走っている風景として想像できるのは東京の郊外のみだったのである。それは自身の育った環境を踏まえれば仕方のないことだが、その像を仙台に無理やり投影することは暴力であり愚かである。捉え方を変えると、たまたま仙台を舞台に選定したことで、その愚かさに気づけたともいえる。
この時点でかなりの地方都市を観察していたのにもかかわらず、東京の像を投影することに終始していたのはなぜだったろうか。今から振り返れば、それは現代日本の消費社会が東京を中心に作られているからではないかと思う。つまりあらゆる地方都市に対して「私が住んでいる世界と同質な小さい東京」という解釈をしても一応は通ってしまう、それが日本は全て東京と関東平野の延長なのだという仮想現実に私を縛り付けていたのではないか。

このような自問によって内なる東京中心主義が表出し、創作に投影された自身の幼稚さと対峙することになった。これを超えていく過程において、今の私の持論であるところの「私鉄解体論」が形成されていくことになる。

(後編に続く)

仙台近辺の訪問記録

今日の一曲

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