架空琉球史覚え書き①
未来の自分に向けて、頭の整理のために今考えていることを記しておく。
※この文章を読むにあたって注意
注意1
この文章は偽史であり、事実とフェイクが混在しています。
読まれる際は適宜内容の真偽を確認して頂くか、全てフェイクという扱いでご覧頂くことをお勧めします。
また、この文章をソースに正史について語ることはお止めください。
注意2
創作の性格上、歴史的、文化的観点において当事者に対して失礼に当たる表現が含まれている可能性があります。
以上の二点について了承できる方のみ閲覧頂きますようお願いします。
第一章 前提 1844年以前の琉球
まず前提を確認するために現実と架空琉球の分岐点となる1844年以前の状況を記す。一般に、19世紀前半の琉球王国は清国への朝貢を通じた従属と、琉球侵攻以降に確立した薩摩藩への従属という二重の従属体制下にあったと言われる。清国への従属は、琉球の支配者である尚家が自身の統治を正当化するために行ったもので、清国は内政や外交に対しての干渉を行わない。
一方薩摩への従属はより実効的なもので、薩摩藩は琉球王府に対し主に内政、外交、経済面における支配を行っていた。今回は創作において重要な要素となる薩摩による支配について言及する。
薩摩藩による間接統治
薩摩藩は1609年の琉球侵攻によって琉球に対する支配を確立したが、その実態は行政を直接管轄する直轄統治ではなく、琉球王府を従属させることで管理する間接統治であった。ここでは、具体的にどのような統治が展開されていたのか触れておこう。
外交・内政
外交、内政については薩摩藩が在番奉行という監察機関を那覇に設置し、琉球王府が重要な政策決定を行う際はこの在番奉行に諮問を行わなければならないという慣習を設けた。諮問を受けた在番奉行は鹿児島や江戸藩邸の藩上層部と協議し、藩主の命によって琉球王府に指示を与えるという仕組みになっていた。つまり、琉球王府は一定範囲内であれば独断で政策を実行できたが、薩摩藩から重要事項とされたものについては、基本的に薩摩の意向に従う必要があった。
経済・貿易
一方経済面の支配については藩が琉球王府に対し年貢を設定し、貢租の義務付けを行った。しかし、琉球は日本と異なり米が生産できないため、代わりとして黒糖が年貢の対象とされた。琉球侵攻後の琉球王府は、薩摩に定められた年貢を納めるため、国内に黒糖を軸とした徴税機構を構築しこれが以後の統治の基盤となった。また、貿易については唐物方と呼ばれる監察機関が那覇に設置され、ここが輸出入品の流通を統制した。統制下においては薩摩商人が貿易を寡占する状態であり、先述した黒糖の輸送、売買を薩摩商人が独占していたほか、米、綿をはじめとした生活物資の輸入についても薩摩商人が独占していた。琉球は大半の生活物資を自給できず、日本からの輸入に頼っていたため、薩摩商人が輸入品の取り扱いを独占する状況は、国内流通そのものの寡占を意味していた。
薩摩への従属と依存の関係
このように、琉球王府は一定の自治権を維持しながらも、実質的な宗主国である薩摩藩によって定められた様々な制約のもとで政治経済を運営することを強いられた。しかし、琉球王府は手放しで薩摩藩に従属していたわけではないという側面がある[要検証]。つまり琉球王府は薩摩に従属するメリットを認識したうえでこの体制を受け入れていた面があるということで、メリットというのは主に軍事面と経済面によるものである。軍事的に見れば近世の琉球王国は小国で、東シナ海上に散らばった領土を防衛するための軍事力は、国内に存在しなかった。そのため、薩摩への従属を受け入れその代わりに藩が有する軍事力の庇護下に入ることは、琉球にとってメリットとして働くのである。
また、経済面では清国への朝貢が深刻な負担となっていた。朝貢は那覇から海を渡って北京まで使者を送る必要があるほか、清国皇帝への貢物は高価なものを用意する必要があり、多大なコストを要する。財源に乏しい当時の琉球王府にとって、朝貢の継続は難しいものとなっていたが、薩摩藩による支配体制が成立して以降は藩が朝貢の費用を負担することがあり、これによって朝貢の継続が可能になっていた側面がある[要検証]。冊封体制を維持し、王権の正統性を確認する朝貢は王府にとって最も重要な儀式であり、この費用の負担が受けられるというのも、メリットとして働くのである。
これらの側面を総合すると、琉球王府は薩摩による広範な内政干渉を受け入れる代わりとして、軍事的な庇護や経済的な支援を求めていたと言え、両者は支配-従属関係であると同時に依存関係にもあったと考えられる。
後述する通り、このような両者の歪な関係は、19世紀後期に列強の接触を受ける過程においてディスコミュニケーションを生み出す要因となり、それが琉球士族のナショナリズムを刺激することになるのである。
まとめ
ここまでの話をまとめると以下の通りになる。
・19世紀前半の琉球王国は、清国の冊封体制に組み込まれながら、薩摩藩の内政干渉を受ける二重従属国家であった。
・薩摩藩は1609年の琉球侵攻以降琉球を間接統治し、琉球王府に対して様々な制約を設けた。
・しかし、支配を受ける琉球王府にも一定の打算があり、支配体制の中で軍事的な庇護と経済的援助を求めるようになった。
次回へ続く