《パレード》解釈―を兼ねた平沢進入門
凡例
・《 》の使用は、楽曲の作品名を示す。
はじめに
平沢進がインターネット上において話題になるとき、映画「パプリカ」で使用された楽曲《パレード》もともに注目されることが多い*。《パレード》を通じて平沢進を知ったという方も少なからずいるであろう。そもそも大半の人にとって平沢進は「《パレード》の人」、または「やばい方のパプリカ」といった認識ではないだろうか。
では、人々は《パレード》をどういった楽曲と認識しているのだろうか。以下のYouTube上に(無断転載ではあるのだが)アップロードされた『パレード』のコメント欄をのぞいてみると、「意味不明」であるとか「わからない」、「不気味」といった掴みどころのなさや言語化のしにくさに注目したコメントが大半を占める。中には真剣に歌詞を考察しているコメントもあるがごく少数にとどまる。
しかしながら、《パレード》を「意味不明」と言って終わらせてしまうのは非常にもったいないのではなかろうか。《パレード》は平沢楽曲の中でも極めて歌詞内容が推測しやすいものであり、ほうぼうにヒント(ほぼ答えでもある)がちりばめられている。
《パレード》の解説はインターネット上においてさんざんされてきているが、同曲の歌詞には平沢進の思想が色濃く表れており、その思想の周縁も含めて再考に値すべきものであろう。《パレード》を通じて平沢進を知ったという方に向けて、さらに《パレード》を理解する、はたまた平沢進をもっと知るためのツールがあってもよいのではなかろうか。
そこで本稿は《パレード》を通じて、「平沢進」も入門してみようという大胆なことを試みるのである。(あまりの内容の薄さにファンの方からあとで怒られそうであるが、ご容赦いただきたい)
*なお、執筆者は主にTwtter上において繰り広げられる、映画『パプリカ』・《パレード》のネタ的消費に対してあまり快く思わない。特に、『パプリカ』や平沢進が関係ない話で唐突に《パレード》を話題に持ち上げたり、《パレード》と他の楽曲を比べて他の楽曲を見下すような行為はやめておいた方が吉である。
平沢進について
《パレード》を知る前に、まず作曲家である平沢進を知らなければならない。平沢進(1954~)は、1970年代半ばからプログレッシヴ・ハードロックバンドのマンドレイクで活動し、1979年にP-MODELのヴォーカル・ギターとしてメジャーデビューした作曲家・音楽家(本人はこの表現を嫌がるであろうが)である。平沢進の経歴に関しては、Wikipediaが非常に充実しているためそちらにゆずるとして、ここでは平沢進の主な楽曲(具体的には『白虎野』まで)とそこに込められているメッセージ、いうなれば思想について説明していく。難しいかもしれないが《パレード》の解釈には何分必要なものなので、お付き合いいただきたい。
P-MODEL
・『IN A MODEL ROOM』(1978/8 ワーナー・パイオニア)
P-MODELの1枚目のスタジオアルバム『IN A MODEL ROOM』は、ジョージ・オーウェル『1984年』をコンセプトにしており、ディストピア的世界観が描かれている。ご存じだろうが、《美術館であった人だろ》は同アルバムの表題曲として収録されている。
このアルバムでは、主に管理・既存社会への抵抗がうかがえる。同アルバムが作成されるよりも少し前の1960年代にはヒッピー(既存の社会体制への批判)やカウンタカルチャー(対抗文化・既存の高級文化への対抗)が若者を中心に広まっており、そのような背景もあって同アルバムが作成されたであろう。《美術館であった人だろ》、《ソフィスティケイテッド》や《アート・ブラインド》がその類だ。
また同アルバムは「きれいなものによって蓋をされた不都合なもの」にも焦点が当てられている。
ここでは、行政等が管理することによって、社会は表面上”綺麗”になったものの、その裏には未だ”グロテスクな現実”が存在していると主張されている。ここに、管理社会によって隠されてきたものを暴き出せ!といった思想が読み取れる。
余談ではあるが、初期の平沢の歌詞には性的なものが多い。
・『LANDSALE』(1980/4 ワーナー・パイオニア)
P-MODELの2枚目のスタジオ・アルバム『LANDSALE』では、先ほどの『IN A MODEL ROOM』と同様、管理社会に焦点を当てつつも、そこから拡大して管理社会の下で謳われる教育・普遍性・科学が批判されている。また、タイトルの”LANDSALE”はランドセルと売国奴(Land Sale)のダブル・ミーニングであるなど、かなり直接的な表現が用いられている。
ここでいう「ドクター」とは単なる医者のみならず、権力者のことも意味しているのではないだろうか。社会的に”偉い”とされる学者、教師、医者、政治家、警察などなど権力者は絶対的に正しいとされがちであり、大衆はそれに盲目的に従っているという、いかにもディストピア的世界観が描かれている。
平沢ソロ
・『Virtual Rabbit』(1991/5 ポリドール)
一気に飛んで平沢進ソロ3枚目の『Virtual Rabbit』である。同アルバムが発売された2年前の1989年に東西冷戦が終結したこともあってか、同アルバムには《我が心の鷲よ 月を奪うな[プラネット・イーグル]》と《ロシアン・トビスコープ》といった、米国とロシアをモチーフにした曲が収録されている。公式では「科学が消し去った「もうひとつの世界(リアル)」を物語る」と紹介されている。
ここで言われていることは専門家(もの知り)の意見を聞いてみても答えは返ってこないし、手を差し伸べてくれさえしないといった先ほどの『LANDSALE』にも通じるような科学・専門家(=権力者)批判である。
・『BLUE LIMBO』(2003/2 TESLAKITE)
平沢進ソロ9枚目の『BLUE LIMBO』は、平沢ソロ初、明確性のある政治的抗議が歌詞に込められており、蛮行と戦争の恐怖で制御される「惑星BLUE LIMBO」を舞台とするコンセプトアルバムである。また、同アルバム発売一か月前に発表された「殺戮への抗議配信」では以下のように語られている。
このアルバムではアメリカ同時多発テロ以降のアメリカの動きに対する反戦・反対の意思表明がなされている。
また、この反戦表明には、何者かによって「真意や背景」は隠され、人々の正気を失わせたと主張される。このアルバムに収録されている《狙撃手》という曲の歌詞には「Decoy Distract and Trash(真実を隠蔽する為の囮作戦)」の略である「DDT」というキーワードが出てくる。
これ以降の平沢進の歌詞には、世界は本来こうあるべきという価値観と社会の現状との乖離の背景には、悪意のある巨大な組織が存在するはずであり、マスメディアはそれらの真実を人々に隠し、洗脳しているとする思想が顕著に表れてくる。(この点、拙著『新・平沢進は無害か』に詳しい)
核P-MODEL
・『ビストロン』(2004/10 TESLAKITE)
核P-MODELとは、中心メンバーだった平沢がP-MODELの作風を継承したP-MODELの新たな形態である。
そんな核P-MODELの1枚目のアルバム『ビストロン』は、またしてもジョージ・オーウェル『1984年』と、イラク戦争におけるプロパガンダ戦争がコンセプトになっている。このアルバムは、世界の実像を映し出す「ビストロン」とマスメディアを通じて人為的に放出され誤った世界像を見せる「アンチ・ビストロン」という世界観を構築する。このアルバムには《Big Brother》や《崇めよ我はTVなり》といった特徴的なタイトルの曲も多い。《崇めよ我はTVなり》イントロ部分では、ジョージ・W. ブッシュ大統領の2002年1月29日教書演説で使われた「mass destruction(大量破壊)」という単語が差し込まれている。
『BLUE LIMBO』に引き続き『ビストロン』でも反米思想が表れている。
《パレード》歌詞解釈
さて、ようやく本題である《パレード》の歌詞である。同曲が収録されているアルバム『白虎野』(2006/02 TESLAKITE)は、平沢ソロとしては『BLUE LIMBO』の次、アルバムとしては『ビストロン』の次に発表された。
このアルバムは『BLUE LIMBO』の流れを組む「ディストピア3部作」と言われている。《パレード》の歌詞も第一印象としては、ディストピアのイメージがぼんやりと浮かぶのではなかろうか。
この曲の特徴として皮肉った形として横文字(カタカナ)を多用する点が挙げられる。ここで出てくる横文字は科学に関連する単語が非常に多い。『LANDSALE』と『Virtual Rabbit』に引き続く科学(者)批判はまだ健在である。
「マイナーな欝/バラ色・幸せ」の二項対立は「ピンクは血の色」を彷彿させる。表面上はポップに見えるが、裏にはグロテスクのものが隠されているという主張は『IN A MODEL ROOM』から継承されている。娯楽や消費に大量投資しつつ経済的な豊かは満たされている一方で、精神的豊かさは無視され、片づけられてしまう。バブル期を指しているのか、リバティー(自由)のユートピア(楽園)であるアメリカを揶揄しているのか。「マイナーな鬱は戯言」は『LANDSALE』《ドクター・ストップ》の「ノイローゼのアンタのことなどキじるしキの字でコントロール」に対応している。
「瀕死のリテラシー メカニカルに殺す」は9.11後の米国の取った国際法違反ともいえる行動を指しているであろう。
「なべて迷信と笑え 因果のストーリー」はかなり陰謀論的なフレーズである。陰謀論は一般に「重要な出来事の裏では、一般人には見えない力がうごめいていると考える思考様式」(秦 正樹 2022) と説明される。陰謀論者の間では、重要な出来事には何かしらの陰謀と因果関係があり、多数の人は無知蒙昧がゆえにこれを否定してしまう、とされる。ここでは詳細には書かないが、平沢進は「9.11は自作自演であり、ブッシュ政権を含む少数のエリートが、テロとの戦争または連邦政府の権限を強化するためWTCビルを自爆した/させ、マスコミは従来のテロ事件であるかのように報道した。」とする9.11陰謀論を唱えている。邪推でしかないが、このフレーズの前に「高層のメガ神殿」といった語が登場するがこれは「ワールドトレードセンター」を指していると考えることも難しくはない。
シビリアン(大衆)は多数者(轟音のMC)の意見に騙され、「マイナーな説」は無価値とレッテルを張られてしまう(これも陰謀論的価値観が強い主張である)。もはや現実においてポップ・綺麗な面などなく(地に落ちた道理)、自分自身で夢を見て(SSRI:抗うつ薬)快楽を得るしかない(ハイホー:現実逃避)のである。
第一部が現実世界、今の世界・日本の状況であるとしたら、第二部は平沢進が思い描く未来の世界・日本の姿であろう。
まとめ
平沢進の主張は一貫としている(ここが平沢進のすごいところでもある)。P-MODELで「ピンクは血の色」と言っていた時代から《パレード》まで、「きれいなものの裏にあるグロテスクな現実」という社会批判は変わらない。
ただし、9.11を契機にそこに陰謀論が加わったことも注目に値する。《パレード》はこれまで見てきたように単なる社会批判のみならず、陰謀論的価値観が色濃く表れている曲である。無論、この曲を「陰謀論」という極めて単純な構造に回収してしまうことは筆者の意図するところではない。
しかしながら、この《パレード》収録の『白虎野』以降のアルバムにおいては、陰謀論的思考が歌詞に直接反映されているのは事実である。
そのような事情を踏まえて《パレード》の歌詞を再考してみるというのも面白いのではなかろうか。
あとがき
なんとか短文ですませようとしたものの、想定していた文字数よりも大幅にオーバーしてしまったため、最後にかけて失速してしまった。執筆者も納得していないため、余裕があれば書き直したいと思う。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?