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製薬企業にとっての取締役会──厳しい規制と社会的責任をどう監督するか?(社外取締役の責任)
製薬業界は、医薬品の研究・開発から製造、販売に至るまで、多くのステークホルダーと規制の狭間で活動する産業です。社会的に極めて大きな責任を負う一方、国ごとに異なる法制度や慣行に対応しなければなりません。そんな環境で企業の舵取りを担うのが、取締役会の監督機能(ボードのオーバーサイト)です。本稿では、日本・米国・欧州の大手製薬企業を例に、取締役会の構成やガバナンス体制、コンプライアンス・リスク管理、ESGへの取り組みなどを幅広く比較し、その最新動向と課題を探っていきます。
1. 取締役会の構成と独立性
独立取締役の割合
製薬業界を含む大手企業の取締役会構成を見てみると、独立社外取締役の割合は国や地域によって大きく異なります。
米国:S&P500における独立取締役比率は約86%(Spencer Stuartの調査)と、取締役の大半が社外。
英国:主要企業では独立社外取締役が約93%に達する。議長を除く半数以上を独立取締役とする慣行も根付いている。
フランスなど欧州大陸:一般的におおむね50%以上(フランス約69%)が独立取締役を占める。
日本:日経225では取締役の約44%、TOPIX100では約47%と、以前より改善したとはいえ、米欧ほど高くはない。
日本における社外取締役の増加
2015年に導入されたコーポレートガバナンス・コード(CGコード)などを受け、ほぼすべての上場企業が社外取締役を選任するようになりました。とくに東京証券取引所プライム市場では「取締役の3分の1以上を独立社外取締役」とすることが事実上の新基準になり、2022年時点でプライム企業の90%以上がこの要件を満たしています。
しかし、過半数以上を独立社外取締役とする企業はまだ少なく、JPX日経400銘柄でも17%にとどまります。米英では過半数以上が当たり前の水準と比べると、独立性の点で差が残ります。
社外取締役の役割
どの国でも、独立社外取締役には「経営と一定の距離を置き、客観的な視点で監督を行う」という期待が寄せられます。
米国:社外取締役は経営陣の意思決定を監督し、株主の利益を守る受託者責任を負う。
欧州:社外取締役や監査役会の非業務執行メンバーが「経営の牽制役」を担う。
日本:CGコードにより「経営の監督と助言」が明確に求められ、武田薬品工業のように取締役会議長を独立社外取締役とする例も増加中。
委員会設置状況
専門委員会の設置にも地域差があります。
米国:監査・指名・報酬委員会の設置が実質的に必須で、それぞれ独立取締役のみで構成することがニューヨーク証券取引所やナスダック規則で義務化。米ファイザーは取締役会に規制・コンプライアンス委員会を置き、法令順守などを専門に監督。
英国:監査・指名・報酬委員会を設置し、少なくともその過半を独立取締役が占めるのが一般的。
日本:従来の監査役会設置会社が多かったが、2003年導入の委員会設置会社制度によって徐々に3委員会(指名・監査・報酬)を採用する企業が増加。武田薬品工業は「監査等委員会」に加え、任意の指名・報酬委員会をすべて独立社外取締役で構成。
日本の委員会設置率はまだ低いものの、3委員会設置会社や監査等委員会設置会社への移行は進んでおり、今後の拡大に注目が集まっています。
2. ガバナンスの枠組み(各国の法制度とコード)
日本の法制度とコード
日本では会社法の定める3つの機関設計(監査役会設置会社/指名委員会等設置会社/監査等委員会設置会社)のいずれかを企業が選択できます。コーポレートガバナンス改革が加速した2015年以降、指名・報酬委員会の設置や取締役会の独立性・多様性向上などが求められ、2021年改訂のCGコードではプライム市場企業への要求がさらに強化されました。プライム市場企業は独立社外取締役1/3以上が一般化し、取締役会の実効的な監督が重視されるようになっています。
米国のガバナンス枠組み
米国では州法(特にデラウェア州法)を中心に、取締役の忠実義務や注意義務が定められています。特に「In re Caremark(1996年)」判決以降は、取締役会が適切なコンプライアンス体制や情報報告システムを整備していないと、受託者責任違反に問われ得ることが明確になりました。さらに
サーベンス・オクスリー法(SOX法):監査委員会の完全独立や内部統制の強化を義務化
ドッド・フランク法:報酬委員会の独立化や「Say on Pay(株主による経営者報酬への投票)」制度を導入
こうした連邦レベルの規制と、ISSやブラックロックなど投資家のガイドライン(ソフトロー)が組み合わさり、取締役会の監督機能がより厳格に求められるようになっています。
欧州のガバナンス枠組み
欧州諸国では「コンプライ・オア・エクスプレイン(遵守か説明か)」を柱とするコーポレートガバナンス・コードが一般的。英国は単層型取締役会制を採用し、UKコーポレートガバナンス・コードに基づき「取締役会議長を除く半数以上を独立取締役」「CEOと議長の分離」などが推奨されています。
一方、ドイツやフランスなど大陸欧州では二層型(監督役会+経営委員会)が典型。ドイツでは共同決定法により、一定規模以上の企業は監督役会の半数を従業員代表とすることが義務付けられています。欧州連合(EU)はさらに法定監査指令やステークホルダー資本主義的な要素(人権・環境配慮など)の導入を進めており、取締役会が社会・環境面にも目配りするよう促しています。
3. コンプライアンス・リスク管理における取締役会の機能
製薬企業にとっては、研究開発や製造品質、販売活動に関わる法令順守が極めて重大な経営課題。取締役会はこれをどう監督しているのでしょうか。
監査委員会・監督役会による財務・法令リスク監督
米国:SOX法以降、監査委員会が財務報告のみならず、内部統制やコンプライアンスまで幅広くモニタリング。経営陣・内部監査部門・外部監査人と直接連携し、不正リスクや違反兆候を早期に把握する。
欧州:単層型では監査委員会、二層型では監督役会やその下の監査委員会が同様の役割を担う。ドイツのバイエル社などでは、監査委員会が定期的にコンプライアンス報告を受け、必要に応じて経営陣と協議。
経営レベルのリスク管理との連携
多くの製薬企業は、ERM(全社的リスクマネジメント)体制を敷き、取締役会はその有効性を監督します。
米国企業:年次戦略レビューの一環で主要リスク(研究開発、市場競争、薬害訴訟など)を討議し、株主向けにリスク監督の取り組みを開示。
英国GSK:監査・リスク委員会が財務・非財務リスクを網羅し、ESGデータの信頼性チェックも担当。さらに科学委員会で新薬パイプラインの技術リスクや安全性を監督。
コンプライアンス委員会・プログラム
米国の大手製薬では企業倫理プログラムを整備し、取締役会が実効性を監視します。
米ファイザー:取締役会内に規制・コンプライアンス委員会を置き、営業・研究開発・製造の品質リスクなどを細かく点検。CEO直下にチーフ・コンプライアンス&リスクオフィサーを配し、取締役会への直接報告ルートを確保。
バクスター・インターナショナル:品質・規制遵守に特化した委員会を設け、医薬品・医療機器のリコールなど品質問題をボードレベルで監視。
日本では監査役会制度を中心としてきましたが、社外取締役が増えたことで、取締役会による直接的な監督も強化されています。ノバルティス日本法人の不祥事(ディオバン臨床研究データ改ざん)などをきっかけに、海外子会社を含めたガバナンス整備が大きな課題となりました。
危機対応と取締役会
不祥事や事故発生時には、取締役会が迅速かつ適切な対応を迫る役割を担います。
ジョンソン・エンド・ジョンソン(J&J):1982年のタイレノール毒物混入事件では、企業理念「我が信条(Credo)」を最優先し、全製品回収を決断。結果的に消費者の信頼を守り抜き、後に市場を回復。
オピオイド危機:一方で過剰販売リスクを軽視し、取締役会の監督不足が批判された企業も。デラウェア州の判例(Marchand判決など)で、生命関連分野では安全確保と法令順守リスクの監督が“ミッション・クリティカル”だと改めて示されました。
4. ESG(環境・社会・ガバナンス)への取組みと取締役会の関与
ESGは企業戦略と切り離せない重要テーマとなり、製薬業界も例外ではありません。気候変動や製造過程での排出削減、医薬品アクセスや安全性確保など多岐にわたり、取締役会によるモニタリングがより本格化しています。
ESG戦略の統合
米BMS(ブリストル・マイヤーズ スクイブ):取締役会がESGリスクと機会を「事業戦略の不可欠要素」として議論。指名・ガバナンス委員会がESG報告の一次的責任を負い、報酬委員会がESG目標を経営陣インセンティブと連動させる。
専門委員会・責任者の設置
英国GSK:取締役会下にCorporate Responsibility Committee(CRC)を置き、アクセス向上・DE&I・環境・倫理基準など6領域について経営陣の取り組みを定期レビュー。同社の監査・リスク委員会はESG関連データの開示・保証も担当。
米メルク(MSD):企業責任委員会が製品安全や環境持続性などを監督。
ファイザー:報酬委員会が多様性目標の達成度を経営陣の評価に反映。
日本:武田薬品工業はサステナビリティ諮問委員会を取締役会に設置、エーザイは「hhc(ヒューマンヘルスケア)」を経営指針に掲げ、取締役会が患者貢献やアクセス向上を継続チェック。正式なESG委員会を置く企業は少ないが、サステナビリティ委員会などを設け取締役会に報告する仕組みを整えつつある。
情報開示と対話
欧州では**企業サステナビリティ報告指令(CSRD)**が採択され、上場企業に対してESG報告を取締役会承認のもと財務報告と同等に義務付けました。TCFD(気候関連財務情報開示タスクフォース)の提言も広がり、製薬企業も気候リスクや対応戦略を取締役会で精査・開示する流れが主流化。日本でも2021年CGコード改訂により、サステナビリティへの積極的開示と取締役会の関与が一段と重視されるようになっています。
多様性と企業文化
取締役会のジェンダー多様性:EU指令で2026年までに上場企業の取締役会における非業務執行役の40%を女性とするなど、目標が設定。フランスやノルウェーはクオータ制で女性比率が大幅に上昇。英国はFTSE350で40%を達成。一方日本は一部上場企業でも平均12.8%(2022年)にとどまり、課題が残ります。
企業文化の醸成:取締役会は「トップの姿勢」として行動規範(Code of Conduct)や企業理念をチェックし、長期的な企業価値向上を目指す。J&Jの「我が信条(Credo)」やエーザイの「hhc」などはその好例です。
5. 各国の製薬業界におけるガバナンスの実例
日本・成功例:武田薬品工業
老舗企業でありながら、近年は指名委員会等設置会社化やグローバル人材の積極登用で取締役会を大きく改革。取締役会を社外取締役中心とし(15名中12名が社外)、議長も社外取締役とする先進的取り組みが注目されています。シャイアー買収後もガバナンスを強化し、海外投資家から高い評価を得ています。
日本・課題例:ノバルティス日本法人の事件
2013年の降圧剤ディオバン臨床研究データ改ざん事件で、日本法人のガバナンス不在が問題視されました。海外本社の監督が十分機能せず、不正が長期間見逃される結果に。本社はその後、日本法人の社長更迭やコンプライアンス諮問委員会設置などを実施。グローバル企業における海外拠点の監督体制構築の難しさを示す典型例となりました。
米国・成功例:ジョンソン・エンド・ジョンソン(J&J)
「我が信条(Credo)」を経営とガバナンスの指針とし、1982年のタイレノール事件で全製品回収という迅速決断に踏み切ったエピソードは有名です。取締役会が企業理念を重視し、消費者や患者の安全を最優先する姿勢を支持したことが、長期的な信頼回復につながりました。
米国・課題例:オピオイド危機
医療用麻薬性鎮痛剤の乱用問題でパデュー・ファーマやJ&J、マッケソンなどは大規模な訴訟と賠償責任を負う事態に。取締役会が適切なリスク監督を怠ったとして批判され、株主代表訴訟に発展する例も。社会的インパクトの大きいリスクを軽視できないことを浮き彫りにしました。
欧州・成功例:グラクソ・スミスクライン(GSK)
取締役会にCorporate Responsibility Committeeを置き、「Ahead Together」というコーポレート戦略のもと、アクセス向上、研究倫理、安全性監督、環境対策など6重点領域をモニタリング。取締役会主導で2030年カーボンニュートラル目標をコミットするなど、ESG経営で高評価を得ています。
6. 近年のガバナンス改革や規制の動向
日本
2022年の東京証券取引所の市場再編に伴い、プライム市場上場企業には独立取締役1/3以上や委員会設置が強く期待されるようになりました。加えてボードスキルマトリックス開示や女性取締役の登用促進など、ハードルは一段と上昇。アクティビスト株主の動きも活発化し、取締役会改革への圧力が高まっています。
米国
取締役会の多様性と気候関連情報開示が2大トレンド。ナスダックは取締役会多様性の開示や最低2名の多様な人材(女性・人種的マイノリティなど)の取締役選任を求め、SEC(米証券取引委員会)は気候リスク開示ルールの制定を検討中。S&P500ではすでに女性取締役比率が3割を超え、取締役会の構成が大きく変わりつつあります。
欧州
EU取締役会多様性指令により、2026年までに取締役会の非業務執行役の40%を女性とするか、全取締役の1/3を女性とすることが義務化。さらにCSRD(企業サステナビリティ報告指令)で非財務情報開示が強化され、サステナブル・コーポレートガバナンス指令案では人権・環境デューデリジェンスが取締役の義務となる見込み。TCFD義務化やSay on Pay制度など改革が相次いでおり、製薬企業もこれら規制への対応を取締役会レベルで検討する必要があります。
総括
いずれの地域も、取締役会の責任範囲は拡大し、透明性・説明責任が高まる方向へ進んでいます。製薬業界は特に規制が厳しいだけに、「ボードはどこまでリスクを把握していたのか」という問いが常につきまといます。気候危機やステークホルダー資本主義の台頭により、取締役会が果たす役割は今後さらに複雑かつ重要になるでしょう。
7. まとめ
日本・米国・欧州の大手製薬企業を比較すると、取締役会の構成やガバナンス枠組みこそ異なりますが、いずれも「独立性の強化」「多様性の確保」「コンプライアンス・リスク管理への注力」という点で方向性は共通しています。
米国:独立取締役による委員会主導が徹底し、迅速かつ厳格な監督が期待される反面、短期志向の批判も。
欧州:共同決定や複数のコードによるステークホルダー重視でバランスを取りつつ、議論に時間を要する傾向も。
日本:社外取締役の導入や委員会設置など欧米モデルを取り入れ、急速に改革中。ただし「質」や「実効性」でさらなる課題も。
製薬企業は、社会に医薬品を提供するという極めて高い公益性と責任を負っています。そのため財務指標だけでなく、患者や社会全体への配慮が不可欠。ESGや企業理念に基づいた経営チェックを強化する流れは、まさにその要請に応える形です。
ガバナンス改革にゴールはありません。新たな規制やリスクが登場するたびに、取締役会も進化を続ける必要があります。健全な監督機能を持つ取締役会は、イノベーションの推進と社会からの信頼確保を両立できる大きな武器となるでしょう。製薬企業が「治療法を通じて社会に貢献する」という使命を果たし続けるためにも、各地域の優良事例や改革の潮流を取り入れながら、取締役会のガバナンス体制をさらに強固にしていくことが今後の鍵となります。