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私の苦手な風潮(石田)

谷垣君と話して、同じテーマで何か書くことになった。今回は「私の苦手な風潮」というのである(以下の文章を書いてしまってから、求められたテーマからは逸脱し、文章もかなり読みづらくなってしまったため、公表に躊躇するが、いつか改稿する予告のようなものとして、恐縮ながらここに載せる)。

「風潮」というのは、ほんらい、風によって変えられる潮の流れのことを言うらしい。それが転じて時代的な現象をいうようになったということであろう。風によって変わる潮の向きというと、かなり移り変わりの激しいものであることになる。それは、本来、一、二年の短い間のことのみを風潮と言ったというよりは、逆に、十年、二十年と続く現象であっても、所詮は風向き次第でどうとでも変わるものと考えられたということだろう。また、潮の動きは、船を動かしたり、魚を獲ったり、海の上や海の近くで何かするには常に敏感に気を付けていなければならないものであるから、所詮変わりうるものであっても軽視してよいわけではない。「風潮」という言葉には、島国らしい精神性が現れている。そういうところから、俳諧における不易と流行というような考え方も出てくるのであろうし、般若心経の色即是空空即是色の俗的解釈が割合容易に受け入れられることになるのであろう。「無常」という言葉に現れるような人生観も、世間を「憂き世」、「浮世」と見る世界観もまたしかりである。

こうした考え方は、放縦無法や無気力を伴うニヒリズムとは本来縁遠いものであったはずだが、明治以後、盛んに西洋化が進むに伴って、容易に結びついた。日本近代文学を見ると、実証的な西洋の自然主義文学が、「事実ありのまま」主義、「トリヴィアリズム」等と形容される独自の自然主義文学に転じた根底には、一つには、個人主義と進歩主義の欠如があったのであろうけれど、その裏面には、不易と流行を表裏一体と見る昔ながらの精神が残っていたのだ。しかし同時に、島崎藤村は古い息苦しい「家」から出て新しい「家」を作ろうと模索して「新生」を夢に見る人であり、正宗白鳥は「ニヒリスト」として読まれるというように、作家も読者も既に昔ながらの日和見主義に甘んずることは出来なかった。人々のそうした雰囲気は、日露戦争の勝利という事態に象徴されている。

それからしばらくして流行したマルクス主義は、従来の世界観が崩壊の危機に瀕していたからこそ、喜んで受け入れられたのであろうし、そのマルクス主義を仮想敵として登場した小林秀雄が「私小説論」を書いたのは、ごく自然なことと言って良い。小林は、マルクス主義者に見られる思考の抽象性も、自然主義文学に見られる、個人と社会の対立意識の欠如も、批判したが、それは、マルクス主義も自然主義も駄目だというより、当時の日本の現実が、そのどちらによっても正しく認識できないということを意味しているので、そのどちらも、一面としては正しい。それ故マルクス主義と自然主義両方が、日本の現実を正しく認識するためには必要なのである。小林は一時、ドストエフスキー論をライフワークとしたが、挫折している。その理由について彼はどこかで、「キリスト教が分からなかった」と言っていたと思う。それは結局、西洋近代が分からなかったということではなかったか。

日本は、明治以後、急速に推し進めてきた近代化によって、従来の世界観を機能不全にしたが、それを棄ててしまえるほど近代化しきることは出来なかったのだ。近代化するのなら、いっそ天皇もキリスト教徒になるべきだった、かつて天皇と仏教は共存したではないか(亀井勝一郎『現代史の課題』)という意見は、一理ある。日本人は無宗教かというのはよく聞く問いだが、キリスト教にも仏教にも神道や土俗信仰にも、儒教にも、手に負えないような、始末に困る精神構造をしている。確かに、西洋もまた、近代においてキリスト教の普遍性を弱めてきたが、T・S・エリオットやG・K・チェスタトンに見られるように、懐疑の果てに戻ってくる場所としては、未だにその力を失っていない。日本の場合は、懐疑の内にどれだけ彷徨っても、キリストも阿弥陀如来も語りかけてはこない。ある意味で、日本ではモダンが即ポストモダンだったという言い方ができるかもしれない。

この時代に生まれ育った人々が、ポストモダンを知り、モダンというものを知るためには、やはり、小林がそうであったように、日本的なものと西洋的なものの両方を知らなければならない。かつては日本的なものをよく知る人がエリートであったことを考えれば、今エリートになることは実に困難である。この近代日本の特殊性に加えて、少子高齢化、教員不足、教育内容のブレ、娯楽の多様化といった事情によって、現代では時代状況をよく把握して慎重にものを考える人が相当育ちにくくなっている。このままでは頽廃していくばかりである。と、さかしら顔に放言することもまた、近代日本の一症状である。それもこれも、全て今の風潮と、押し流されぬよう潮目を見極めることが、我々に残された希望ではあるまいか。

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