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卒倒読書のすすめ 第七回 ヘルマン・ヘッセ『荒野のおおかみ』

 少し前に『普通の人でいいのに!』という漫画がTwitterで話題になっていた。

 カルチャーを拗らせてしまった人が、理想と現実のギャップに悩まされる話である。みにつまされる部分も多々あり、少々の冷や汗をもって読み終えた。そして、この感覚は身に覚えがあるぞと思った。かつて、もっと激しく、こんな感覚になった作品があった気がすると、本棚を一段一段訪問してみた。これだー!と引っ張り出したのがヘッセの『荒野のおおかみ』。ただし、『荒野のおおかみ』は『普通でいいのに!』をもっと危険なところまで突き詰めた作品だ。主人公は拗らせが行ききった初老の男性であり、選民意識は誇大化、市民思想に強い嫌悪感を抱いていて、あまりに繊細で社会生活もままならない。

 主人公のハリー・ハラーは、芸術を愛するインテリで繊細で孤独な男性である。彼は自分の中にある二つの人格に苦しんでいた。社会に同調し秩序を重んじる、市民としての人格と、それを激しく軽蔑し破壊的衝動を持つ、荒野のおおかみとしての人格である。二つの精神は時に激しく対立しあい、それゆえに彼は大きな孤独を抱えている。ある日、些細な出来事をきっかけにハリーは強い絶望に支配され、自死を実行する恐怖から、場末の酒場へ逃げ込む。そこで会ったのは中性的魅力を持つ若い女性、ヘルミーネ。ハリーはヘルミーネの導きによって、人生に新しい側面を見出していくのだった。

 ハリーの苦しみは、荒野のおおかみの精神を持ちながら、小市民生活を送らなければならないという矛盾から生じている。

こんな世の中の目指す目標など私は一つだってともにしはせず、こんな世の中の喜びは一つだって私にしっくりしないのに、どうして私はこの世のただ中で、荒野のおおかみやみすぼらしい隠者であってはならないというのか。
一方はただ他方を苦しめるために生きていた。二つが一つの血と魂の中でともに天をいただかずという敵対の関係にあるとすれば、それこそ全く不幸な生活である。ともかく、めいめいが自分の運命を持っており、どの運命もらくではないのである。

 当然、人間の人格はたった二つに分けられるような単純なものではない。しかし、ハリーは自分の中の野蛮性を一つの人格として解釈することで、どうにか生きていこうともがいているのだ。そんな絶望の中で出会ったヘルミーネは、ハリーを孤立から社会に結び付けてくれる。ヘルミーネは "荒野のおおかみ" を「あなたの空想よ」と笑って、「もっとやるべきことがある」と叱ってくれる。ハリーを「おおかみさん」と呼び、ほかの人間もあなたと同じ孤独を持っていると諭すのだ。

あんたたち、学者や芸術家は、いろんなふうがわりなことを頭の中に持っているけれど、他のひとたちとおなじように、あんたたちだって人間よ。私たちだって私たちなりに夢と遊戯を頭の中に持っているわ。
踊ろうとさえしないで、生きるために骨を折ったなんて、どうして言えるの?

 ヘルミーネの言葉は決してハリーを、そして読者を否定しない。軽やかにいかに己の世界が狭いかを示してくれる。ヘルミーネに出会うことで、ハリーは自身の根幹にある差別意識、選民意識、理想主義と向き合っていくことになる。それまで変化を恐れ、軽蔑という形で向き合う恐怖から逃れてきた、あたらしい音楽やダンス、気軽な恋愛なども知ることになる。あんなに嫌悪していた、個人が消えて市民として、統一性の中に溶け込むということすら体験してしまう。

 ここまでだと、ヘルミーネによる主人公ハリーの更正リハビリ物語にも思える。しかし重要なのは、ヘルミーネもまた、孤独を抱えた、世の中に満足していない人間だという点である。

私はあんたに、踊ること、遊ぶこと、ほほえむこと、しかし満足しないことを教えてあげるわ。そして私はあんたから、考えることを、知ることを、しかし満足しないことを教わるわ。私たちふたりは悪魔の子だと思わない?
あんたは世間にとって次元を一つ多く持ちすぎているのよ。今日生活し、生活を楽しもうと思うものは、あんたや私のような人間であってはならないのよ。インチキ音楽のかわりにほんとの音楽を、娯楽のかわりにほんとの喜びを、お金のかわりに魂を、営業のかわりにほんとの仕事を、遊びのかわりにほんとの情熱を求める人、そういう人にとっては、世のはなやかな世間は故郷じゃないわ。

 ハリーとヘルミーネは一見すると対照的な人物に思える。しかし、結局は互いに鏡であり、互いに先導者の役割を持っている。そして、ハリーとヘルミーネは世のあらゆる幸福な生き方を知ったうえで、市民的幸福であることに満足しない。その先に開かれる扉を見据えている。

僕は自分の幸福に大いに満足している。まだ相当長いあいだ耐えられる。だが、この幸福が、目をさまさせ、あこがれを持たせる時間を、一時間でも僕に与えてくれるようなことがあると、僕のあこがれは、この幸福をいつまでも保持することをめざしはしないで、ふたたび悩むことを、ただもっと美しく、以前のようにみじめでなく悩むことをめざすのだ。

 漫画『普通の人でいいのに!』を読んだとき、共感とともに感じたのは「私は普通の人でいいなんて思ったことないけどな」というものだった。ハリー同様、かなりやばい拗らせである。もちろん、この考えが世間的にあまり良くないことも理解しているので、容易に口に出すことはない。それでも、やはり根底に流れる血を入れ替えることはできないので、「本当にいいと思っているのか?」と世の中の流れに対する疑問は持ち続けているし、自分がいいと思うものや、悪いと思うものを曲げる気もさらさらない。「普通の人でいい」なんて、嘘でも口に出して言えない。それによって生じる孤立もそれなりの覚悟を持って受け入れている。だから、この作品の二人が、自分に思えて仕方なかった。ハリーのように絶望の中、孤独を死守するときもあるし、ヘルミーネのように朗らかに、他人と表面で関わりながら孤独を死守するときもある。私も一匹のおおかみを心に飼っていて、そいつをずっと殺せずに来たのだ。

 ヘッセがこの物語に用意した結末は、この孤独に対する大きな解答だった。本来、社会はあらゆる選択肢が用意されている必要があるし、人間はあらゆる選択肢を知っている必要がある。選択肢は多い方がいいし、楽しみの種類もたくさん知っていた方がいい。しかし、そこから何を選ぶかはまったくの自由。この物語の結末は、少し世から外れてしまった人々へ向けた、ヘッセからの大きな肯定のように思えた。繊細で柔らかな感性が用意した、とびきりの狂った結末。波長のずれた人間が個人を突き詰め、ずれた波長のまま生きる自由。この本にヘルミーネを求める現代のおおかみたちが迷いついて、絶望と希望を同時に受けっとったらいい。読了後、少し人生が狂いだしたら、偉人たちと同じ不滅のひとへの道へ踏み入れたことになるかもしれない。『荒野のおおかみ』は、そんな危険な読書にヘッセが笑いながら手招きしている本である。


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山椒一味
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