破邪立正

 「過去の因を知らんと欲せば其の現在の果を見よ、未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ」(開目抄)。

「不幸だ」「苦しい」「地獄だ」「死にたい」
そう言う人は自分が地獄に居ることを知らない。そう言う人に長い期間の過去現在未来を説いても解らないので、もっと短期間で見ることにする。其処で明日の自分の姿を想像する。昨日と同じ今日、今日と同じ明日で不幸なら、明日もきっと不幸だろう。では、今日貴方は何をするだろう?苦しみを押し付けられるのは昨日の原因に対する結果であるとする。すると今貴方自身は何をして居るだろう?外道の祈りとかしていないだろうか?すると其の原因を以て明日も今日と同じように不幸に成るのである。とすると、今日、今、不幸な貴方は昨日何をして居ただろうか?外道の祈りとかしていなかっただろうか?

遠い過去から未来に至るまで此のようにして因果は連らなっている。
虐めの原因も上記のような構造を持っている。今日、誰かが貴方を虐めるのは過去貴方が積んだ誹謗仏法(外道の祈りとか)を因としている。だからと言って虐めて良いわけではないが、仏法上原因は自身の誹謗仏法によるのである。

誹謗仏法(因)→不幸(果)

この図式は覚えておいた法外良い。

そんなことを言っても誹謗仏法を強要されるのだ、と言うかも知れない。卑怯な虐めっ子のよくある手口である。
そんな時は叩かれても殴られても誹謗仏法を断るしかない。逃げても良い。其で相手には罪障が溜まり無間地獄へと堕ちていくのである。若人不信毀謗此経即断一切世間仏種である。逃げられなくて、叩かれるのも痛くて、と言うのであれば折伏するべし。相手に仏法の道理を、殊に

「一切の誹謗仏法を捨て本門戒壇の大御本尊を信じ南無妙法蓮華経と唱えよ」と言い切る。

其で、
「俺は仏弟子だ」
と言うのであれば、もう虐められないはずである。何故ならば
「軽賤憎嫉而懷結恨に当たる」ので。
無視すれば入阿鼻獄(無間地獄行き)である。

決して誹謗仏法に負けて(退転するから)、罪障を作って泣きを見ないこと。
泣きを見たとき相手に罪障は積まれないのかと言えば、積まれている。必ずいずれ無間地獄に堕ちる。只「言わずんばあるべからず」で「法にすぐれば罰当たりぬるなり」まで延命される。だから折伏しろと言う。

元へ。

幸不幸の因果の連鎖は過去現在未来と繋がっている。不幸だと嘆く暇があったら仏法を実践して宿命を変え幸せに成ろう。

不幸の因1(誹謗仏法)→不幸の果1

なので此の因果が終わるまで不幸は続く。
此の時仏法を実践して、不幸の果1を

果2<果1(罰の重さ)

で不幸の果2に転換するのが転重軽受である。
殺されるところを殴られるですむ、と言ったところか。
そうやって転重軽受を繰り返していく内に罪障の
不幸の因ー不幸の果
の連鎖が消滅して不幸がなくなるのである。代わりに仏法実践の

幸福の因→幸福の果

が具わってくる。

死ぬぐらいなら仏法を実践せよと言うのは上記のような理由による。死んでは修行できない。文字通り「死ねば終わり」なのである。今度何時仏法に巡り遭うか判らない。

行学絶えなば仏法絶えなん、と言う。
勇んで仏法を修学しよう。

付記
折伏をして入信決定迄はしないものの、自説の誹謗仏法を取り下げて威儀を正す人はいるでしょう。しかし此方の矛先が相手に向かわなくなった時から次第に復誹謗仏法の主張をし、誹謗仏法を強要してくる輩がいる。こう言うのを「絆し」と言うらしい。
実には全く改心せず懺悔滅罪するつもりもないのに反省したフリだけをすると言う。

こう言う人には決して心を許してはならない。卑怯だから。心の内で断固とした態度でいいなければならない。勿論行動においても。
此方は此方で不退転でなければ幸せにはなれない。














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