E ola na ohana ka wa’a moana 『大海原に棲むカヌー家族』 no.1


もう2週間にもなる、僕らが八丈島から弓ヶ浜まで漕いで帰ってきてから、

何か言葉として残さなきゃ、次世代の子供たちのためにも、自分の思いや、その海を漕いで感じたメッセージを伝えたい。と2週間思い続けながら、、、、浜に行ってはいつもの場所で瞑想したり、浜に落ちたマイクロプラスチックを黙々とつまみながら、ほとんどお寺の小僧の雑巾がけ状態の心理になりながら、海からのメッセージや、南風にのってやってくる僕らが漕いだ大海原の空気を思い出そうとしている。

小笠原までの海を漕いで島々をつなぐ、、、

そしていつの日か、日本とハワイの間の太平洋をヴァアを漕いでつなぐ、、、

というビジョンを抱いたのが2008年だから、もうかれこれ13年前になる。

2007年夏、ハワイから星を見ながらやってきたHokule’a が僕に残していったメッセージ、『duke 、これは始まりのはじまりなんだよ、、、』それから僕は1年間葛藤を続けながら仕事もせず悩み続けた。

そして、僕が与えられたビジョン、、、、

そして、Kuleana クレアナ、『使命』

その途方もない僕のビジョンを実現するために、どのくらいの年月がかかるはわからないけども、小笠原、そしてハワイまでの太平洋を漕いで渡る、その過程で、僕のKuleanaも実現していくと信じている。

”海洋民族を祖先とする日本人として目醒めること、” 

”このマザーアースで他の生き物たちとともに調和して生きる、”

その想いは、僕のKuleana を実現しようとする想いは今まで13年間、一時もなえることはなく、想いはどんどん強まるばかりだ。

男として当然のように第一に考えなければならない、家族の平安や、豊かに生きるための金稼ぎ、それを無視して13年間突っ走ってきた。非常識な僕は、周りの人に迷惑をかけてきた。
今回の八丈島から漕いだ話しをするつもりが、、、どんどんズレてしまい、前置きが長くなってしまいました。すみません。

どうしても、この前置きというか、オーシャンの成り立ちの話は欠かせないことなんだよね。ボヤージングの話しをする前にはね。

なぜかと言うと、僕ら、オーシャンヴァア(カヌークラブ)が遠くまでボヤージングをしたり、レースを開催したり、日頃の葉山で海に出ることも、、、、
全てがこの僕のKuleanaやビジョンが源泉になっている。もちろん今回の八丈島からのボヤージングもそう。

僕らにとってボヤージングは単にチャレンジや冒険ではない。

自分たちの達成感や、一時のワクワク感や充足感を感じるため長距離を漕いでるわけじゃない。
そこにはガッツポーズも、ドヤ顔も存在しない。イイネも必要ない。

古代の日本人は生活の一部として海に出ていた。それは生活の糧を得るためだけではない。


海を漕ぐことで海と語り合い、

海の気持ちを理解した。

風のにおいを感じて、

空の気持ちを理解した。

太陽のあたたかさを感じ、

月や星を愛でて、

宇宙の愛を感じてた。

そんな、母なる地球によりそい、宇宙とつながることができる人間になりたい。

これからの世の中を生きていく子供たちに、そういう感覚を感じてほしい。

だから僕たちは遠くまで漕ぐ、ボヤージングをする。


もちろんそんなことまで考えないオハナがいてもまったく問題ないし、それは当然のことなんだけど、僕はそのHokule’a に与えられたビジョンと自分のKuleanaを大切にしながら、その価値観と世界観を感じてもらうために日々オハナたちを海に導いてる。そしてその僕が発するエネルギーの波動に周波数があった子供たちや大人たちがOhana Ka Wa’a(カヌー家族)として、今、葉山の浜と海で活動している。

少し昔話になるけども、、、

そのビジョンを実現するために、2008年、Pilialoha (ワンLOVE)という名前がついたヴァア(6人乗りカヌー)が現れた。葉山ではなく、和田長浜という三浦半島にある小さな浜に現れたのだ。

ハワイの長老がよく口にする。『ヴァアは買うものでも作るものでもなく、現れるもの、与えられるもの、なんだよ、、、duke 。』その言葉を思い出した。
まさにそれまで40数年歩んできた僕の人生の道筋がHokule’a に出会い、90度方向を変えた途端にPilialoha が現れたのだった。

持ち家を売り、商売をやめ、借金を残し、葉山の海辺にある古い借家に引っ越してきた。
今のハラウ、がそう。

『ヴァアがあれば、人が集まる、何も心配ない、、、』

そう自分に言い聞かせた。

6人ぴったりで海に出れる機会などほとんどない日々が続く、いつも息子2人とその息子の大学の友だちと、数人の同志が集まった時に海に出るだけだった。もちろんカヌークラブやオハナという言葉も思いつかない時期だった。

そのうち、僕がそのころいつも口にしていた、”小笠原まで漕ぐ”、という言葉に惹かれたのか仲間が少しづつ集まり始めた、でもまだまだ本物じゃなかった。僕の発するマナがまだ本物じゃなかった。世俗にまみれながら、フラフラしながら僕はマナを発信していたのだった。

でも、年月を経つにつれて僕も、一緒について来てくれたオハナ達も少しづつではあるが確実に変化していった。


3.11 のあとの『海からの巡礼のたび』、

海を漕いで渡っていた先祖への思いを大切にするマウイのアンクルとの出会い、

海を漕ぐことは呼吸をすること、と言いきるタヒチアンたちとの出会い、

弓ヶ浜に住みながら3年間、欠かさず島々をみながら浜で祈りを捧げた、

新島に住んで、叫び声にも似た強風の中、コンクリートの堤防に囲まれた悲しすぎるけど美しい青い海をただ一人漕ぎ続けた。

僕の意識や発信するマナが少しずつだけど、確かに、純粋に変化していった。

それでも、現実の世界とのギャップ、オハナとの温度差に葛藤する毎日だった。

コロナ渦になり、人々の意識が、海に、自然に、向き始めた。
たくさんの葉山の子供たちが海辺にあるヴァアの周りに集まる。その子供たちの純粋なマナ、愛にみちた笑顔と声に影響されて、波紋が広がるように確実にオハナたちのスピリットも変化していった。

本物のOhana Ka Wa’a (カヌー家族)が今できつつある。

子供たちが、オハナたちが、海を愛し、感謝の言葉を口にする、優しくあたたかい光の和がどんどんおおきくなる。

2021年夏、僕らは遂に、葉山と八丈島を漕いでつないだ。もちろんその子供たちMoana Keiki 達も漕いでつないだのだ。

希望の光が見えてきた瞬間だった。

なかなか、八丈島から漕いだ時の話しにすすみそうにないね、八丈島と弓ヶ浜、そして葉山をなぜ漕いでつないだのか、、、知らない人も多いので、まずはそこから話をすることになりました。今回の八丈島の話はいましばらくお待ち下さい(笑)


2007 年のHokule’a からのおきみやげ、夏休みの宿題のようなビジョン、そして僕のKuleana クレアナ、、、の話をもう少しさせてください。


2006年に10年間暮らした南カリフォルニアから帰国、

2007年Hokule'a との出会い、

2008年、

『小笠原まで、そしてハワイまで、太平洋をヴァアで漕いでつなぐ、、、』ことを言い始める。

でもその前に、10年間留守をしていた日本で、このduke というのが誰なのか?なんでこんなことをするのか?僕のビジョンを多くの人に知ってもらい、そのための同志やサポーターを求める手段として、13年前にプロジェクト名をオーシャンレジェンド、『伝説の海洋民族』という名称でスタートした。今のオーシャンヴァア(カヌークラブ)ができる前のことだ。

ファーストステージは伊豆大島から葉山までSUPで漕いでつないだ。

https://www.youtube.com/watch?v=BSmFI4ojiXE

まだその頃はSUPという呼び方はまだ定着していない時代で、Stand up パドルボードと呼ばれていて、提供してもらったボードもウインドサーフィンのボードとしても使えるミストラルというウインドのメーカーの厚くて幅の広いボードだった。伊豆大島から葉山までの約65キロを潮と西風にあおられ、流されながら7時間45分かけて漕いだ。2008年夏、僕が45歳の時だったと思う。まだまだヤンチャで元気なころだった。

そしてセカンドステージとして臨んだのがOC-1 で八丈島と葉山を漕いでつなぐことだった。OC-1 を事前に八丈島まで貨物船で運び、天候のタイミングを見て、一人でOC-1を漕いで2日間かけて葉山までの250キロを漕ぐというプロジェクトだった。

https://www.youtube.com/watch?v=rRQM3mqph6U

2年に渡り何度も八丈島を訪れ、その日『the day』が与えられるのを待ったがなかなか天候のタイミングと伴走艇のタイミングが合わずにいた。

そんなある日、その日『the day』は突然やってきた。
2010年7月24日、早朝4時半、僕は八丈島の神湊のコンクリートの堤防に囲まれた海を葉山を目指して舟出したのだ。

この時は残念ながら、砂浜から舟出することはかなわなかった。

今から11年前、海も空も、そして島も、、、何も変わらない。

変わったのは人と、海を渡る私たちをとりまく環境、とくに天気予報のテクノロジーはたった10年で断然便利になった。

11年前、その当時の天気予報の情報量とその精度はまったく今とは違っていた。特に風に関する情報をオンラインで今みたいに手軽で個人が見ることは不可能だった。今ある風予報の情報サイトは、その当時まだ存在しなかった時代だ。そこで、僕は波伝説の気象予報士さんに毎朝電話をして、伊豆諸島近海の風の強さと向きを予想してもらった。今みたいにネットで数時間おきの風の強さや風向きの予報をみることなんてできなかった。自分で天気図を見て、高気圧の場所、等圧線の状況を確認して予測するしかなかったのだ。

そういうこともあり、11年前の『the day』は凪の日、かといえば決してそうでもなかった。 

今回のボヤージングもそうだったけどね(笑)、

どうしても、仕事として請け負っている伴走艇の船長の都合でやらざるをえない状況になるのは、今後のボヤージングをやる上で解決していかなきゃいけない部分だと今回のボヤージングを終えた後にも同じように思ったことでもある。
でも、実際には、あの日7月31日に無理をして、覚悟を決めて八丈島を舟出したからこそ、今回2日間で弓ヶ浜まで漕いでつなげたわけで、そういう意味では自分の希望やイメージを超えた世界に『the day』を与えてくれる大きな力が存在するんだとも思った。

話を11年前の八丈島からのOC-1でのボヤージングに戻そう、、、

2日間で250キロ、それも黒潮が流れるあの大海原を漕ぐというのは今考えても無謀なボヤージングだったと思う。終始ダウンウインドで平均時速7~8ノットで漕げるのであれば可能だけども、実際にはそんなちょうどいい風はいつまで待っても吹かないし、とにかく黒潮の流れは急流というわけではないけども、自分が見える範囲の海すべてが潮流として動き、それプラス干満の差で発生する潮の動きが加わり、黒潮反流という流れもところどころで突然現れるので、まったく予測がつかない、ちっぽけな木の葉のようなヴァアは、その大きな流れにあらがううことができないのだ。 それにも加え、暖かい海水の密度というのか、水の重量がありすぎて、ひと漕ぎひと漕ぎごとに身体に伝わる負担が大きすぎて、日頃私達が漕ぐ相模湾で出せるスピードは到底出せないということが、11年前も、そして今回もあらためて感じたことだった。

11年前は今回以上に、八丈島を出て、御蔵島が遠かった。夕方までまったく御蔵島の島陰さえも見えなかった。その日の御蔵島は黒潮の水温の高さから起こる霧のような雲に終始覆われていたのだった。やっと目視できたのは、島の岩肌が見えるくらいに近づいてからだった。
休憩のたびに止まり、水に浸って足腰を伸ばしている間にも、自分とヴァアをとりまく海全体が2ノットくらいのスピードで自分が出てきた八丈島方面にむけて動いているのだった。
今回も、そうだったと思う。前日まで続いた南東方向からの風の影響もあり、その日はウネリがいい感じで北西に向けてヴァアを押してくれていたにもかかわらず、潮流と向かい風の影響でウネリに乗ることはほとんどできず、ヴァアのスピードも最高で6ノット出すのがやっとだった。3ノットしかスピードが出ない時もしばしばあった。

それに、11年前はあくまでも自分が方角を決めて、伴走艇に誘導してもらうこともなく、北に向けて漕ぎ続けた。
何度も言うように、黒潮の流れはよほど海底が浅い場所や岩礁や島がある場所でない限り、暖かく藍色に澄んだ海全体が大きく、地球が高速で自転するのを私達が感じないのと同じぐらい人に感じない規模の大きさで動くのだった。11年前に僕が御蔵島の島陰に到着した時には、八丈島から直線距離で80キロの場所なのに、GPSでの距離測定では100キロを有に超えていた。それだけ流されながら漕いでいたのだった。

今回の6人乗りのヴァアKupunaでのボヤージングではそういうことはほとんど起こらなかった。これも11年前と現在のテクノロジーの差なのか、それとも11年前の海賊船(常に違法で他の船がやりたがらない仕事をしていた船だから絶対公的なものに名前や写真は出さないようにと念を押された。ちなみにこの船は数年前に伊豆大島沖で大破し沈没してることを最近知った)にその装備がついていなかっただけなのか、、、今となっては判らないが、
今回僕らを伴走してくれた南伊豆の中兵衛丸は遠洋、近海の海で日常的に操業する船だったので、有り余る程の最新テクノロジーを備えていた。弓ヶ浜に到着して知ったことだけど、、、衛星と連動するGPS機能が付いた電子機器、衛星電話、コンピュータ制御の運転が可能な装置が付いていたお陰で、衛星との連動で、全ての潮の流れと自分の船のスピードをコンピュータが計算してくれて、最短の時間と距離で目的地に到着するルートを瞬時に計算して進んでいた。僕らはただその誘導に従いながらKupuna を前進させるだけで良かった。だから僕らとKupunaは常に目的地よりも20度〜35度ほど西よりを目指して漕ぎ続けたのだ。

またまた話がズレたけども(笑)こんな感じで今回のKupun でのボヤージングと、11年前のOC-1でのボヤージングを比べながら思い出すことで、色んな角度で今回皆と漕いだボヤージングをとらえることができるので、このまま話しを進めていくことにしよう。

11年前の7月、御蔵島の東側の島陰に到着した時には八丈島を舟出して14時間以上が経っていた。すでに西の海に太陽が沈もうとしていた。
その日、黒潮の真っ只中にある御蔵島は、潮の流れと島にぶつかって起こる三角波とで洗濯機の中のような状態だった。風は日が暮れるにつれてなくなってきてはいたが、暗闇がすぐそこまで来ていた。
カヌーのマヌイフ(ノーズ)を北に向かせるのが精一杯で、葉山に向けて2ノットぐらいで進んでる程度のスピードだったと思う。そんな中を僕はほとんど気力だけで漕いでると言うよりも潮流に抵抗しながらアウトリガーに重心を寄せて、波間に浮いているだけだった。

伴走艇からは危険な状態に見えて当然だろう。僕とヴァアをここで見失ったら最後、僕とOC-1は大海原の黒潮の中の藻屑になり黒い波間に消えて東の海に漂っていくだけだ。

ビリー・ジョエル似の海賊船の船長が突然、大声で皆に告げた『ここまでだ、dukeをカヌーごと船に引き上げろ、、、』 無情な宣告とは思わなかった、安全を第一に考える船長としては当然の判断だし、こんなに小さな小舟での無謀なチャレンジ(彼はそう思っていた)の伴走を今回引き受ける条件として、自分の判断と指示には必ず従うこと、、、と船出前に念をおされていたのだった。   

それだけでない、実際にその時の僕にはそれに抗う体力も精神力もまったく残っていなかったのだ。

島と島、人と人をつなぐ、、、

そんなことを大切にしていた僕は、せめて御蔵島に漕いで上陸を、、、と弱々しく嘆願したけども、船長はその場ですぐに引き揚げろと指示をした。御蔵島は、イルカは近づけるけども、人や外部の船の接岸も近づくことも簡単には許可しない島だった。霧がかかって神々しく見えたのは、僕だけではなかったと思う。
この時ほど、俺がイルカだったらなあ、、、と真剣に思ったことはなかった。
大型のダイオウイカを引き揚げるような格好で、僕とOC-1は伴走艇に乗せられたのだった。それからの記憶はほとんど無く、今でも思い出せない。僕は重油の匂いが充満するボロい漁船のカンバンの上に裸で横たわり、グルグルと唸り声にも似た心地いいエンジン音を子守唄に寝続けたのだった。

今回は、その御蔵島にはまったく近づくこともなく、御蔵島のはるか20キロ以上西側、イナンバ寄りの海峡を黒瀬(くろせ、御蔵島と八丈島の間にある大きな浅瀬、この場所は地元の漁船も寄りつかないほどに潮が速い)を大きく避けて漕ぎ続けた。八丈島を舟出してわりとすぐに御蔵島が見えてきた。今回は乾いた風も吹いていたので、雲も流れ、快晴も続いていた。

Kupuna はひたすら三宅島のかなり西側を目指した。大回りに見えるけども、このあとさしかかる西から東に流れる黒潮の本流を考えると、コンピュータがそういう風に計算して、僕らはそのルートに忠実に海を渡るのだった。

Peperu の僕は、、、悔しいかな、

コンピュータに制御されながら漕いでる気分だった。

続く、、、

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