『あなたをおもうわよ』という別れ言葉を言われたらあなたはどう思うだろう? 還暦過ぎの私のようなオヤジにとっては、おそらく死ぬ時まで忘れられない存在の人となるだろう
危険をかえりみずに漕いででも死ぬ気で逢いにいくかもしれない
「おもうわよ」という、その素敵な別れの言葉は
わたしが何度も漕いで渡った伊豆諸島の中で唯一いまだに漕いで行けていない南の島、伊豆諸島の最南端、八丈島の南の海上70キロほど渡ったところにある絶海の孤島、青ヶ島、の別れの方言だ
さようなら、またね、というかわりに、島から離れる人になげかける言葉「おもうわよ」と言うのだ
青ヶ島がどんな場所にあり、どんな島なのか、、、 ググってみたら、別れの言葉がそうなるのも解るだろう
別名黒瀬川とも呼ばれる黒潮が洗う絶海の孤島、火山島、100人ほどの島民が標高100メートルを超す火山のカルデラの中に住んでいる、島の周りは360度すべて切り立った火山の山肌、八丈島からの定期船の就航率は入江がまったくない島なので今でも60%、ヘリコプターは定員が少なく風や雲などの天候に左右されるので、いちど島を離れると島に戻ってこれる可能性は、その昔ほとんどなかったと想像できる、だからこそ「あなたのことをおもうよ」「ずっとおもっているからね」という 意味で念じるように「おもうわよ」という ”おもい” (重い)言葉になるのもよくわかる、
でも、その ”おもう” というのは強いエネルギーとなり、それこそ人の運命さえも変え、現実世界をおもった方向にかえることができるのだ、
もう一ヶ月も前の出来事になるのだけど、わたしはオーシャンヴァアの仲間と一緒にハワイのモロカイ島からオアフ島まで漕いで渡るMolokai Hoe というハワイで一番歴史があり由緒ある外洋航海レースに10年ぶりに参加した、
20代、30代の息子世代の若者たちと私も一緒にクルーの一員となり漕いだのだけど(このことに関しては前回のnoteに記している)とにかく若手の足を引っ張らないように「クプナ(長老)である自分の役割を果たす」
それを日々心がけてこの4月からレースに向けて練習に参加し、そして当日のレースにのぞんだのだった、
その自分の長老の役割とは、クプナとして、オーシャンというクラブのためだけでなく、この母なる地球のために祈るように強く”おもう” ということだった、
逢えない、目に見えない存在に切実に「おもうわよ」と念じることだった
思う、想う、念う、
おもかげを重たくおもいうかべるというのが語源らしい
その目に見えない何かに対して思いを馳せるような「おもう」という祈りのような心がけは、2007年にホクレアと出会ったときから無意識のなか始めたことだけど、特に3.11の東日本大震災のあと、海に出るたびに強く心がけるようになり、そしてわたしが一人で海に出るときはもちろんのこと、日頃から海に出るたびにクルー皆で手をつなぎ心をひとつにして祈るという行為を心がけるようになった、同時に朝日に向かって、海を渡る人々を常に照らし導き、すべての生きとし生けるものに生命を与えてくれるお天道様に感謝と愛のおもいを伝えるようにE Ala Eというハワイアンのオリを力強く唱えるのだ、「おもうわよ」と想いながら、
そして今年の春にヒロシマ、ナガサキの海路を漕いでつなぐ愛と祈りの航海で、ひと漕ぎひと漕ぎとパドルが海に触れるたびに自分の愛と海の愛(マナ)とが融和するようにひとつになることを心がけるおもい、
砂浜に上陸するたびに大地と海に献水をして母なる地球のバランスを調えるおもいを伝え、そして地元の氏神さまに参拝する、
そんな 祈りのような ”おもうエネルギー” がわたしの中では海を漕ぐことと同じ行為となっていった、
聖霊の種をまくように、おもうエネルギー を海に空に拡散させるのだ
そうすることで、いろんなことが、そのおもいに共鳴するかのように動き出すのだった、
そんな長老としてのわたしの ”おもうエネルギー” と調和し一つになることができる男たち9人の志し、そしてその家族やオハナたちの思いが通じた、それこそ願いが叶ったような、そんな10年以上におよぶ 私たちの ”おもうエネルギー” の集大成であり、日本海洋民族の布石となるような、今年の10年ぶりの外洋漕いで渡るモロカイホエというレースだったとわたしはあらためて感じるのだ、
陸の上での競争のように、コースや道があるわけでもない、大海原を自由に自分で海の上に道を見い出しながら海を進んでいく、それも太古の人がやってた漕ぐという同じ方法で、
モロカイホエは、ヴァアと漕ぎ手とが海にとけるほどに海と調和し風を味方につけることを競い合うようなレースなのだ、海を中心とする天地自然に認められ受け入れられるためにも、その海を愛し感謝しながらも畏れ敬うという古代の海洋民族のような おもい が不可欠なのだ、
海というのは陸地と違い、水だから流動的でつかみどころがない、みずから形を変え姿をかえて(氷や雨や霧や地下水や川や湖)、地球上をくまなく循環する、だから海(水)が地球に誕生したころから何も変わらない、何も変わらないという言いかたはおかしいかもしれないが、陸で生きる人類の常識や価値観をはるかに超えているので人類の影響をまったく受けない存在なのだ、そんな地球上の水の源泉のような場の太平洋とよばれているおおきな海のど真ん中の大海原、うねりと風に押されながらちっぽけな9人の男たちが力を合わせて一つになり必死でただただ無欲に調和することだけをおもい漕いで渡る、その子供のような純粋な必死のおもいのエネルギーが海に伝わる、海はひとつですべてがつながりバランスをとりながら循環している、だからこそそのわたしたちの 調和の ”おもうエネルギー” は母なる地球全体に拡散されるように浸透していくのだ、
海も母なる地球も、わたしたち人類のその おもい を必要としているから、
スマートフォンの普及でいつでもどこでもネットやSNSにアクセスさえすれば、すぐに人とやり取りができ、つながることができる時代、
真偽に関係なく知りたくなくても必要以上に人の動向や近況が即座にSNSに表示され目に飛び込んでくる今の便利で管理された世の中
家族や親しい人とはいつでもどこでもその気にさえなればつながることができるのがいまの便利すぎる人間の世の中、
魅力的に映える動画や、詩のように心をつかまれるようなたくみな文字の表現、
そこに 最初に書いたその昔、青ヶ島の島民が別れ際に発するような純水で切実な「おもうエネルギー」 はそんざいするのだろうか?
50年ほど前、わたしのこどものころは、そんな便利なものはなかった、電話ごしのこともあるが、録音でもない生身の声と言葉がそこにはあった、デジタルではない紙の上に大切にかかれた手紙や生きた文字があった
電気を使わない生の楽器での演奏と生身の歌声とメロディーがあった
そして、わたしたちの遠い祖先は、電気や機器だけでなく、文字に頼ることもなく、自分のおもいだけで、直感でその場に居ない人や自然界のすべての生き物やそれこそ目に見えない存在たちとも魂レベルで密接につながることができた
神や精霊の声を聞き、自然界のサインを敏感に次元をこえて感じていた
現代人ではわからないその感覚を磨いていたのが私たち日本人の祖先だ、
だからこそ、いまのわたしたちには想像さえ出来ない能力を発揮して海を何かに導かれるように自由自在に漕いで渡ることができたのだ、
電気がなくなると跡形もなく消えてしまうような、
デジタルの画面に映し出される魅惑的で映える動画やうつくしい詩よりも、
ネットやSNSでつながっていないほうが つながりを感じる、
おもい が強まり おもう が深まる
別れ際に直接目と目をあわせ、生の声で、
「ずっとおもうわ」
と言われたほうが永遠に死んだあとも魂でつながる、
自分の心だけでなく、この母なる地球の水に循環されながら永遠にこの地球上に残りつづける
どこにいても、海がわたしたちをつなげてくれる、、
そう思うのは、わたしだけだろうか、