キャリア・クラッシス ①藤堂高虎
構想から半年、やっと投稿できます。
【歴史×キャリア】というコンセプトで、現代の私達のキャリア形成の参考にするのが目的です。
記念すべき第1回目は、もはや「転職の神様」といっても過言では無い「藤堂高虎」です!!
※2022年1月10日追記
読者の方より正式資料において「武士たるもの・・・」の記述が無いとの指摘を頂きました。著者の小松先生は何かしら資料をご覧になったのでしょうが、後世の創作かも知れませんね。(偉人あるある?)
1.レポート目的
2.高虎の略歴について
高虎の武将としての略歴を下図にまとめました。
前半生は、豊臣秀吉(以下、秀吉に省略)の家臣として活躍しています。
後半生は、徳川家康(以下、家康に省略)に重用され、戦場での活躍だけでなく、築城や行政などでも功績が多いのがわかります。(色掛け部分)。
3.高虎の人物像、能力について
高虎は、「加藤清正」「黒田官兵衛」とならぶ「築城の名人」と評されますが、仕えていた秀吉・秀長の死後は家康の家臣のような働きをしていることから、世評は高くありません。
【功利者、風見鶏】などと揶揄されるのはそのためであると思われます。
以下、関連著作(小松哲史 「主を七人替えて ~藤堂高虎の復権~ 」)のからの抜粋です。
4.キャリア分析
高虎は、30代までは陸戦で活躍しつつ、調略や築城のスキルを磨き、朝鮮出兵では水軍を指揮するなど多方面で活躍しています。
また、40代以降は、築城と領国経営で手腕を発揮し、秀忠・家光の相談役として徳川幕府の経営コンサルタントのようなポジションにもなっています。
そこで、高虎を題材にした他の著作からも引用しつつキャリア分析を試みたいと思います。
(1)参考 村上元三「藤堂高虎 ~時代とともに成長を遂げた名将~」より
①なぜ合戦以外でも活躍できたのか?
・姉婿が裏方として兵糧集めなどに貢献した
・放下師という旅芸人を通じて様々な情報を得ていた
②なぜ徳川に重用されたのか?
・様々な武将に仕えて、家康こそが使えるべき主と考えた
・豊臣への恩もあるが、天下泰平を実現するために徳川方として大阪の陣に参じた
・知略・武略・計略に優れているので相談役に相応しい。学問ではなく経験から得たもので希少性が高い
(2)参考 羽生道英「藤堂高虎 ~秀吉と家康が惚れ込んだ男~」より
①なぜ合戦以外でも活躍できたのか?
・阿閉淡路守が水軍兵術に長けており、その教えをうけた
・父虎高の教え「恩を受けたなら、誠心誠意、恩に報いる」を実践した
・近江商人をいつも数人伴っていた。軍事用品を購入するため
・金堀衆を従え、攻城戦で櫓を崩すなど活躍
・四国攻めにて敵将の谷忠澄を調略し、長宗我部元親との和議に結びつけた
・1588年秀吉の命で長崎奉行になり、「夜話会」をもよおして商人から情報収集したり、ポルトガル人からも築城術などを学んでいた
②なぜ徳川に重用されたのか?
・人物の鑑識眼がある(家康評価)
・加藤嘉明と朝鮮出兵にて先陣争いで悶着したが、会津若松40万石の後任に推挙した
→公私にとらわれない判断力がある(秀忠評価)
・伊賀の忍衆を傘下にし、情報収集にも長けていた
(3)参考 藤田達生「江戸時代の設計者 異能の武将 藤堂高虎」
①なぜ合戦以外でも活躍できたのか?
・妻の実家である一色家(足利家の支族である名門)からの支援があった
・津城(港町)と伊賀上野城を街道で結び発展させるなど経済にも明るい
・築城や町割りをするなど設計力、ビジョンの才能があった
・石垣の積み方に独創性があり、地震にも強いと評判
②なぜ徳川に重用されたのか?
・家康の宿所造営にて自費で門を増設し、感心される
→当時は門の多さが権威の象徴となり喜ばれた
・江戸時代に取り潰された大名は248家(外様127家、徳川一門・譜代121家)ある
→その後の国替えもないことから幕府から高く信頼されていた
・今治城は、瀬戸内海の監視のために築城を命じられたのではないか
・丹波篠山城を短期間で築城したのは、大阪城包囲を急いでいたためではないか
・記録に残る築城・改修数は23城(加藤清正:12城 黒田官兵衛:9城)で、群を抜いている
・自領の築城よりも幕府の依頼(築城・改修)を優先する忠義の高さが見える
5.キャリア考察
これまで見てきた経歴などをもとにキャリアコンサルタントの視点から高虎の興味・能力・価値観などをまとめてみます。
(1) 興味
・家督を継ぐはずの兄を亡くし、一族の柱として藤堂家を建て直したかったのではないか
・高虎という名前は、父親を超えてほしいという意味で虎高を逆にして名付けられた経緯があり、彼の行動に大きく影響していると思われる
・戦場で使う旗指物は、紺地に白丸3つであるが、これは「白い餅」を「城持ち」と掛けているといわれ、高虎のハングリー精神や大名になりたいという強い気持ちが表れている
★「シュロスバーグ理論」のうち二度の主の死というイベント(転機)を乗り越えてキャリア転換につなげている。主人を無くした遺族への共感性が高く援助を惜しまなかったのではないか
(2)能力
・15歳で姉川の戦いに初陣し、大阪の陣まで経験した戦いのプロ(槍使い)
・上司のニーズを察知して、成果を出せる柔軟さ、先を見通す力があった
・交渉や費用の工面など近江商人のセンスがあった
・自己成長のため、あらゆる人から学び、スキルアップを貪欲にしていた
・領地の戦略性や技術への理解度が高かった
★「ホランド理論」におけるRタイプ(組立や修理に関わる事を好む現実・研究型)・Iタイプ(好奇心が強く学研的で自立的)の傾向がみられる
★「アサーティブ」を20代~50代にかけて実践している。また新しい主に仕える際の面談において自己の能力をアピールできるコミュニケーション能力が優れていた
(3)価値観
・藤堂家は土豪(悪く言うと没落武士)であるがゆえに高虎は反動的に武士への憧れから「御恩と奉公」のこだわりが強かった
→一方で20代までは自分の働きに対する評価の少ない主人は早期に見限っている
・父虎高も武田・京極・浅井と主人を替えていたので、高虎は他家に移る事に抵抗がなかった
→現代的に解釈すると「転職慣れ」「待遇重視」の志向が窺える
・中国の歴史書を学ぶことで、興国から亡国の流れを知り、戦乱から平和へ時代変化を理解していた
→家康の思惑は天下泰平のために幕府をつくることで、そのために戦いを終わらせたいというビジョンや想いが高虎と一致していた
★「8つの意思決定のスタイル」のうち衝動型(体系的に進むことを考えていない)や直感型(自分の経験などを活用する)の傾向がみられる
★武具を流通させる商人との人脈や城作りのスキルの重要性を「セルフマーケティング」における「自分の労働価値」を高められる「潜在市場」だと捉え、行動していたのではないか
6.総括
最後に、
「武士たるもの七度主君を変えねば武士とは言えぬ」
という格言の真意は、、、、
「武士の本分は、主君に仕えること。
七度主君が変わっても信頼され続けることが
真の武士である」
です。
以上
最後までお読みいただきありがとうございました♫
7.参考資料
〇藤堂高虎~Wikipedia~
○小松哲史 「主を七人替えて ~藤堂高虎の復権~ 」
○村上元三 「藤堂高虎 ~時代とともに成長を遂げた名将~」
○羽生道英 「藤堂高虎 ~秀吉と家康が惚れ込んだ男~」
○藤田達生 「江戸時代の設計者 異能の武将 藤堂高虎」