「物語ることの反撃 パレスチナ・ガザ作品集」を読む
「物語ることの反撃 パレスチナ・ガザ作品集」には、23の「物語」が収録されています。
ここではそれを順番に読み、その感想などを一つずつ書いていこうと思います。
本が成立した経緯などについてはあえて触れず、出来うる限りテキスト自体を読むことに徹し、その時々のパレスチナの現状についてもあまり踏み込まないつもりです。
これがあえて「物語」であることの、遠くへ向かって投げられた射程を想定しながら読んでみようと、そんなふうに考えています。
1.「Lは生命(ライフ)のL」ハナーン・ハバシー
「父さん、お元気ですか」ではじまるこの短編は、亡くなった父親に向けての手紙として書かれている。
語り手である「わたし」は父親がイスラエル兵に連れて行かれた日のことを思い出す。
彼は娘に、寝物語を聞かせている途中だった。それは孤児院で暮らした「ターエル」という名前の子供についてのお話で、しかし「わたし」は物語の結末を知ることはできなかった。
「わたし」は、母親や祖父にターエルの物語について聞く。しかし、誰もそれについてもはや語ろうとはしない。
どうしても物語を完成させたいと思った「わたし」は、歴史の教師であったおばを訪ねる。彼女は「わたし」を、ある廃墟に連れて行く。
「「ここよ」とおばさんは言いました。まったくの驚きでした。こんなところが「場所」なのでしょうか。」
p.54
おばさんは何も説明はせず、「目を開きなさい」と声をかける。「わたし」は何も見えない、と恥ずかしくなりながら頭を垂れるが、そこで一本のオリーブの木を見つける。
それこそがターエルの生きた証だった。「わたし」はそこで、父親の物語を自らの手で完成させる。
題名である「L」を「ライフ」としたのは、パレスチナのつづりを説明するときの語呂合わせから来ている。
生きることは、物語ることである。もしそうなのであれば、それが途絶させられてしまったときには、誰かが語りを受け継ぐこともできる。
冒頭、死者に向かって「お元気ですか」と問いかけることができるのは、過去や未来を超えて他者と言葉で通じる行為として、物語を信じているからだろう。
そういう希望、あるいは信念が、オリーブの木を見つけた「わたし」の微笑み、笑い声、涙、ため息に込められている。
この作品を読んで、佐藤そのみ監督の『あなたの瞳に話せたら』というドキュメンタリー映画を思い出した。
東日本大震災で妹を亡くした監督が、彼女に向かって書いた手紙として作られた作品。
映画はやはり「お元気ですか」という言葉からはじまっている。
2.「戦争のある一日」ムハンマド・スリーマーン
この作品もまた「物語」についての小説である。
ハムザとジハードの兄弟を中心にした小説で、ふたりとも読書好き。父親のものだった本を、ボロボロになってもずっと読んでいる。
ハムザは眠っているとき、微笑んでいる。
彼が微笑んでいるのは「眠ってはいないときに奪われているものを手にできる」からだ。
ジハードは言った。「うん、兄さんが持ってきてくれるものなら何でも読むよ」。
作品はわずか8ページの短編だが、目を閉じること、開けることのイメージが何度も繰り返される。
最後には、爆発に巻き込まれ、兄のハムザは何とか目を開けるが、弟は目を開けられなかった。
ジハードは爆発に巻き込まれ、ボロボロの本を手に持ったまま亡くなってしまう。
冒頭の「本を読み進められそうな平穏を感じたところに」という一説が印象的だ。
彼らの読書は、ずっと疎外されている。
それはパレスチナの過酷な環境のせいだったり、それが反映された自分の心だったり、眠気のせいだったりする。そしてなによりも、死によって。
この小説における「物語」は、飢えるように求められながら、それゆえにより強く、手にすることができないものとして描かれている。
だからきっと書くことは、読めなかった物語、つまりは奪われた人生を、この手に取り戻すための行為でもあるだろう。
3.「助かって」ラワーン・ヤーギー
たった4ページだが、すさまじい作品だった。
「ぼく」が友達とサッカーをして遊んでいたら、突然爆発が起きて親友のアフメドが死んでしまう。
「アブー・アフメドおじさんは通りの真ん中に立ち尽くしていた。立ったまま、セメントについたアフメドの血と脳のかけらを凝視していた」
p.68
そのすぐあとに、こんな文章がある。
「アフメドは助からなかった」
p.68
当然だ。脳が飛び散っていて、助かるはずはないだろう。
しかし、それでもわざわざ「助からなかった」と書く。そのことこそが、この小説の核であると思う。
だからタイトルが「助かって」なのだ。
それがもうどうしようもないことだったとしても、「助かって」という題名で小説を書くこと。助かっていないのが当然であっても「助からなかった」と書くこと。
小説は情報伝達の手段ではない。知っていたはずで当たり前のことを、あらためて思い知った。
4.「カナリア」ヌール・アル=スースィ
現在、場所は公園である。
おもな視点はふたりのもので、ひとりは公園にいる男性で、子どものころに兄をイスラエル兵に殺されている。
もう一人は女性。金髪のイスラエルの兵士であり、「男性」の兄が殺された現場にもいたらしい。
視点や時系列が複雑に入り組んでおり、短いが、その都度立ち止まって読む必要のある小説だ。
それぞれの視点において、前者は「彼」、後者は「彼女」と呼ばれる。
また、過去の回想も挟まれるために、ある断章において、誰のいつのことが書かれているのか、慎重に読まないとわからなくなってくる。
作品のなかで、唯一固有名詞を与えられているのは、「彼」の亡くなった兄であるガッサーンだ。
その名前を中心にしながら、パレスチナ人の「彼」とイスラエル人の「彼女」、過去と現在が対比される。
あくまでも個人に目を向け、また登場人物の区別を人称代名詞にとどめることによって、パレスチナとイスラエルの非対称性を乗り越えようとする意志を感じる。そして当然、その不可能性も同時にある。
「彼」と「彼女」は銃口の引き金に手をかけて対峙し、そこで物語は終わる。