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「視線」とともに見るー「民話 ゆうわ座」と映像記録

音楽は終わってしまえば消えてしまい、二度ととらえることはできない
When you hear music after it’s over, it’s gone in the air, you can never capture it again.
エリック・ドルフィー

「民話ゆうわ座」について

来月、12月11日にせんだいメディアテークで「民話 ゆうわ座」が開催されます。この催しは、震災後からメディアテークで活動をしている「民話 声の図書室」が例年おこなっているもので、今回で9回目です。

民話ゆうわ座 第九回
「伝承のみちすじをたどる ー永浦誠喜さん、伊藤正子さんの語りから」
■日時:2022年12月11日(日)13:00-16:00
■会場:せんだいメディアテーク1fオープンスクエア
■参加方法:入場無料、直接会場へ
https://www.smt.jp/projects/minwa/2022/11/post-13.html

毎回「笠地蔵」「食わず女房」などのテーマを設けて、それにまつわる語りの映像を見たり、実際に聞いたりしながら、民話について考え、語り合う場として続いてきました。

今回のテーマは「伝承のみちすじをたどる」。
永浦誠喜さんと伊藤正子さんという親戚同士のふたり、話の源を同じくする二人の語りを聞きくらべながら、民話が語り伝えられることについて、考える場を開きます。

永浦さん、正子さんのお二人はすでに他界されていますが、2000年にみやぎ民話の会が開催した「民話の学校」という催しで語られた貴重な映像を上映します。

画像自体はHi-8のビデオで撮られた不鮮明なものであり、撮影しているのもいわゆるプロの方ではありませんが、これが大変素晴らしい映像なので、みなさんにもぜひ見ていただきたいです。

二人の語り手が交互に「さいしんへら」などの話や子供の頃の思い出などを語るようすを記録した映像で、公民館のようなところのステージ、普段着のままマイクを通しての、特に演出されたわけでもない語りなのに、なぜここまで永浦さん・正子さんお二人の人柄が直接にあらわれるのか、はじめて見た時から不思議でなりませんでした。

私は、字幕をつける作業などで関わっているのですが、そこで、このささやかな映像と「ゆうわ座」の場について感じたことを、少し書いてみようと思います。

民話語りの記録を見る

私が最初に民話語りに触れたのは、民話採訪者・小野和子さんが聞き手をつとめた映画『うたうひと』の撮影現場でした。その後も「みやぎ民話の会」のみなさんが聞き手をつとめる語りの場を、何度か撮影させてもらう機会がありました。

語りの撮影は、一回で4時間を超えることもあるくらい長時間でしたが、編集の際には、撮影した映像を最初から最後までみなさん一緒に見て、カットする場所などを話し合いました。

真剣に画面に向き合って、まるでその場で聞いているかのように、時に笑ったり泣いたりしながら見るみなさんの集中力には何度も驚嘆させられてきたのですが、それこそが小野さんたちの「聞く力」なのだと納得もしました。
そこでは「聞くこと」と「見ること」のあいだに、違いはなかったのです。

ホームビデオで撮られた「民話の学校」の映像を見る時もやはり、民話の会のみなさんは「聞く力」をもって見ていました。

20年以上前の映像に映った永浦さん、正子さんの表情を見ながら「いいお顔ね」と言い合う小野さんたちの眼差しとともに見る体験には、映像を通して誰かの存在と向き合うことの、単純で純粋な深さを感じました。

そして私は、小野さんたちと一緒に「民話の学校」の記録を見てはじめて、映像が持つ意味、そこに映っている人の存在を受け取ることができていたのだと気がつきました。
映像を見ている場の空気をつたって、みなさんの集中力、「聞く力」が、こちらにも伝播し、映っている人・声の、本来の強度が、直接感じ取れるようになるのです。

そしてそれは、もう50年も民話の採訪を続けてきた小野さんたちの「視線」とともに見るからこそ成り立つものであることに、間違いはありません。

市民による震災の記録

Hi-8で撮られた「民話の学校」の、一見したところなんということもない映像を見て、思い出したことがあります。

私は震災後「3がつ11にちをわすれないためにセンター」に関わるようになり、いわゆる「市民」のつくった映像記録に触れるようになりました。
それこそプロの作ったものではないので、技術的には未熟なものも多いのですが、そこには簡単に流して見過ごすことのできない「必然性」があると感じました。

撮らざるを得なかった、とりあえず撮ってみた、プロが狙って作品を撮るようなものではないそういった映像をたくさん見ているうちに、私はいわゆる完成された「映画」とは別の(しかし結局はつながっていく)もう一つの価値に触れていったように思います。

それは、商業映画のように一方的にメッセージを受け取るものではなく、映ったものからこちらが何かを見出していく、と同時に勝手な解釈に立ち止まることもさせない、そういった一つの距離、ものの見方のようなものです。

それは「撮ること」と「見ること」がほとんど同じ意味になっていくような体験でした。
そして「そういうものだったら自分にも撮れるかもしれない」と考えるようになって、自分の作品を作るようにもなりました。

視線とともに見る

市民による震災記録や、今回の「民話の学校」のように、スペクタクルやプロバガンダではないある種の映像には、時として「見ることによって見出されるなにか」が映っています。

それは、見る側が映っているものを先入観なくそのままに受け取り、しかし同時に主体的に対象に関わっていく「視線」のもとにはじめて見えてくるような「なにか」です。

映像自体は何度上映しても変化しませんが、それを見る視線はそのつど別の、一回限りのものです。
だから私は今回のゆうわ座を、小野さんたちの「視線」とともに永浦さん・正子さんの語りを見る、一度きりの「場」として捉えています。

「ゆうわ座」は、民話についての集いであると同時に、それ自体が一個の民話語りのようなものです。それは情報ではまったくなくて、あくまでも「場」であり、発生すると同時に持続しながら消えていく、一個の「音楽」なのです。

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