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グンゼの企業城下町、綾部を巡る

生糸の製糸で世界的に有名なGUNZE。
創業の地である京都府綾部の町を、
グンゼと製糸業、企業城下町にてついて考えながら歩いてみた。

グンゼはこの綾部の地に年に創業した。それまで京都近郊のこの地域では品質の低い生糸の産地であったが、グンゼの登場とともに瞬く間に生糸の一大生産地へと登りつめた。

綾部の町は、丹波の山々に囲まれた非常に山深いエリアにあり、なぜここでグンゼは創業できたのか、と思うぐらい都市部からも距離がある。

■グンゼが創業する前の綾部の養蚕・製糸業
・明治に入り、中央政府が東京に移ると、蚕種と生糸の輸出も横浜に限られた。蚕糸業は群馬や長野など東日本を中心に発展。1885年に東京上野で開催された「五品共進会」にて京都府の繭と生糸は厳しく批判された。京都近郊は生糸の品質の低い産地であった。
・品質が低迷していた原因は、丹波や丹後地域は西陣などの絹織物の生産地が近く、販売先に困らなかった故に技術振興が遅れたためとされている。グンゼが創業するまでは、綾部周辺は手引きの製糸工場だらけだったのだ。
・当時、茶と蚕糸は価格相場が変動しやすく、収益は安定しなかった。「糸びん、茶びん、嫁にだすな」という言葉まで流行るほど、綾部周辺で養蚕・製糸業を家業とする家の生活は苦しかった。

展示説明書より

10:00 綾部駅着・グンゼ博苑へ

綾部駅から10分ほど歩くと、グンゼ博物苑に着く。ここでは、グンゼの企業史や製糸の技術について学ぶことができる。

こっち系のマニアにはたまらん大充実な展示内容なので、気づいたら滞在時間2時間。
非常に危険なスポット。

■製糸会社「グンゼ」とは
明治期、東日本の製糸業が技術開発を進めていたのに対して、京都近郊の製糸業は西陣向けの手引き糸生産に留まり、品質の悪い生糸の生産地とされていた。
 創業者である、波多野鶴吉は綾部で小学校の教員をしていたが、養蚕農家の子どもの劣悪なかんきょうに暮らす姿を目の当たりにして一念発起。地場産業であった養蚕糸業の建て直しを決意し、南丹地方の蚕糸業組合の組合長になり、振興を目指した。
 1889年、波多野は器械製糸工場「羽糸組」を設立。座繰りを経ずに、手引きから一気に器械製糸に移行した。特約関係を養蚕農家と結ぶことで同一優良繭を入手した。この特約農家は労働者である工女たちの供給源にもなった。

展示説明書より
製糸機械も実物解説付きという豪華さ

▫️グンゼの特徴
⑴売って喜び買って喜ぶ
養蚕農家から繭を買い付ける購繭員には対等公平な立場で買い付ける指導をした。
⑵「表から見れば工場、裏から見れば学校」
創業翌年から夜学を開始し、1917年にはグンゼ女学校を開設。
⑶正量取引
科学的な鑑定による根定め方法。投機的な販売ではなく、相場を問わずに5、10日の相場価格で売ることにした。成行先約定。繭の価格変動のリスクを避けるころができる。
⑷創業時から器械式操糸機を導入
投資が必要だったが安定した生産が可能(座操機を飛ばした)
⑸ 郡の蚕業奨励機関
郡の蚕業奨励機関となるよう会社を位置付け、地元養蚕家や製糸家が株主に。お互いの共存共栄が図られた。グンゼ設立前後に廃業した製糸家の多くが工女として採用された。(全体の84%が何鹿郡出身)

展示説明書より
工女の生活道具
工場の中で働いて暮らし、勉強をした。

11:00 由良川を渡って対岸へ

遠くに見える教会

グンゼの工場横には教会があった。
工女教育にキリスト教を取り入れたグンゼ文化の名残かな。

■キリスト教と工女教育
・会社の発展と良質な絹糸をつくるために、キリスト教を工女の教育に用いた。
・製糸工場を設立するにあたって、綾部で天蚕飼育をしていた田中敬造を訪問。田中は四国の伊予で日本キリスト公会の演説を聞いて、洗礼を受けていた。一方、前橋で技術習得をしていた新庄倉之助と高倉平兵衛も、キリスト教の影響を受けて帰郷した。
・群是は、明治30年に「夜学」を開始、36年にはキリスト教の指導も導入。工女は全寮制の中で生活し、夜学で養蚕法、裁縫、修身、読書、算術などを学んだ。
・群是では「労働」と「修道教育」は事業の裏表とされ、「表から見れば工場、裏から見れば学校」と言われた。

「良き社会人、良き家庭人になるよう教育。女性従業員を娘と思い、教育した」とされるそう創業者波多野鶴吉。「会社の精神は愛なり」という言葉を残している。

こうした創業者の思想や工女教育は、当時としてとても先進的な取組だったと思う。その一方で、これは従順な労働者を作り出す装置としても機能していたのでは、とも思ってしまう。

12:00 資料館へ

綾部の町の起源を知るために、由良川を超えて、工場の対岸の小高い丘の上にある郷土資料館へいく。

綾部は「漢部」と記されていた

■漢部(あやべ)という地名について
・奈良平安時代、律令制のもと、郡を納める役所が今の市民センター付近に置かれていた。ここで税金を集め、都に送る仕事がなされていた。
・平安時代にが16の村があったとされ、当時は「漢部(あやべ)」と書かれていた。
・地理的にこの地は日本海側地域で、丹波国に属していたという。 優れた機織り技術を持つ漢氏(あやし)と秦氏(はたし)が住み着き、 朝廷に属する部曲として漢部(あやべ)となり、それが地名の由来となった。 糸にまつわる物語は以後、「グンゼ」が受け継ぎ、街の発展に大きく寄与した。

展示より

12:30 再び由良川を越える

この由良川は奈良時代から都へと繋がる物流網として利用されていた。鉄道などの交通機関が整備された今、かつてのように船が行き交うことはないが、由良川のPh値は製糸に向いているらしく、グンゼの製糸業の発展にも一躍かっている。

今は静かに流れる由良川

13:00 綾部の企業城下町を散策

グンゼの企業城下町になる前から綾部は由良川を巡る交通の要所として盛えてきた。
グンゼが最も興隆していた時代はさぞかし賑やかだったんだろうなと、当日の栄華な景色が想像される商店街となっている。

さすがお膝元、グンゼパックT自動販売機
お土産に買って帰ればよかった。
「お菓子屋さんが多い」企業城下町あるある
きっと菓子折り贈与文化が強いのね
「花屋街がある」企業城下町あるある
ここは月見町という風雅な通り名がついていた
生糸を神戸港へ運ぶ流通の要だったが
乗降客数が減少する山陰本線


さて、よく歩きました。
> 福知山編へつづく

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