宮ヶ瀬湖ダム開発と消えた集落
江戸時代の宮ヶ瀬村
丹沢の山々が湖面に映る宮ヶ瀬湖。
この湖は、自然的に発生したものではなく、
昭和に人工的に造られたものである。
この湖のある場所に、かつては宮ヶ瀬村という集落があった。宮ヶ瀬村の当時の姿を知りたくて、宮ヶ瀬湖にある宮ヶ瀬水の郷交流館を訪ねてみた。
宮ヶ瀬村は、山々に挟まれた狭い渓谷にあった。貧しい農地に替えて、豊富な森林資源に恵まれたこの村では、山の管理が主な村の仕事となっていた。
上記引用にもあるように、森林管理の仕事の見返りとして、米などが給付されており、村の農作物の自給率は低く、幕府という管理権力とも密な関係にあったことがうかがえる。
明治期、外国人避暑地となる
明治、横浜港が開港されると、外国人が自由に出入りできるエリアに宮ヶ瀬村のエリアも含まれるようになった。平地にある八王子が生糸の一大流通拠点兼生産地として栄える一方、山々と豊富な自然に恵まれた宮ヶ瀬村は避暑地として知られるようになる。
宮ヶ瀬村の暮らし
村は豊富な森林資源を生かし、炭焼きや鍛冶屋、漆塗りなど、「木」を材とする生業が主に行われていた。また、生糸の生産地八王子と撚糸の生産地半原が近いこともあり、養蚕も行われていた。
交流館にも当時の暮らしが伺える道具が数多く展示されている。
川名に残る当時の風景
主に種類は下記の通りとなる。
昭和にダムのそこへ消える
集落の暮らしはどこへ消えたのか
本「ホハレ峠」で有名な徳山ダムを巡るダム開発反対運動に比べて、宮ヶ瀬湖ダム開発は運動の記録があまり見つからない。
これは恣意的な力が働いていたからなのか否か、現状では分かりかねるが、観光地化された宮ヶ瀬湖を見ていると何か違和感を感じる。
横浜が明治期に開港し、江戸から東京になり、
ますます人口が増えるにつれ、都市が必要とする資源の量は増える。
変化したのは量だけではなく、必要とされる資源そのものも木材から水へ、炭による火力から水力へと変化し、増え続ける人口を支える水資源が求められるようになった。
宮ヶ瀬村は、この時代の流れに合わせるように変化し、林業や木を用いたかつての生業は次第に廃れ、最後には村自体がその存在を身売りするかのように、土地を手放すことになった。
湖上で展開される観光地化と湖面下に眠らされた村の歴史。その両極面が見えてくると、その両極性に目眩を覚える。
今回はここまでだったけど、もっとこの違和感の正体を深く掘っていきたいと思っている。