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【春秋戦国編】第10回 始皇帝 その2【飛龍乗雲 最後の強敵たち】
趙の守護神・李牧
呂不韋の失脚により秦王・政の親政が本格的に始まります。
紀元前236年に王翦、桓齮、楊端和らが趙を攻めて9つの城を攻略。紀元前234年と翌紀元前233年には2年続けて桓齮が趙を攻撃し戦果をあげます。
しかし、紀元前233年の遠征で桓齮は趙の将軍・李牧と司馬尚と河北省晋州市の西にある肥で戦い敗北してしまいます。史記や資治通鑑では桓齮は敗走したとありますが、戦国策ではこの戦いで戦死したとあります。大敗と言っていいでしょう。
人気マンガ・キングダムでも強大な敵として描かれる李牧ですが、武廟六十四将や戦国四大名将にも選ばれるこの時代を代表する名将中の名将です。
李牧は元々国境で匈奴をはじめとする異民族対策で戦功を挙げた将軍です。
着任当初は匈奴の攻撃に対して消極策を採り、趙王や兵卒からは大きな反発を受けました。しかし、油断した匈奴軍を偽装退却の後に包囲し騎兵十万騎以上を討ち取っています。
偽装退却からの包囲殲滅は日本の島津氏の釣り野伏せが有名です。ほかにもモンゴル軍が同様の戦術を得意としておりワールシュタットやモヒで大戦果を挙げています。
類似した戦例としては紀元前216年にイタリア半島で発生したカンナエの戦いが最も有名でしょう。偶然ではありますが、趙の名将・李牧とカルタゴの名将・ハンニバルはほぼ同時代の人物です。
肥の戦いの翌年、紀元前232年には約30万人の秦軍が趙に侵攻しますが、李牧率いる趙軍20万が番吾の地でこれを撃破します。秦軍の将軍は記録されていませんが、10万人が討ち取られるという大惨敗だったようです。
昭襄王以降の秦に勝利した人物はかなり限られており、趙奢などいずれも後世名将とされる人物ばかりです。更に複数回秦に勝利したとなるとこれは李牧を除けば魏の信陵君くらいのものでしょう。
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最弱の国・韓の滅亡
李牧の活躍により対趙戦は行き詰まってしまいます。
しかし、戦国七雄の中でも最弱の国・韓は趙以上に苦しい戦いを強いられていました。
窮地の韓は秦王・政が即位した紀元前246年に鄭国という人物をスパイとして秦に送り込みます。
この鄭国という人物は土木の技能・知識に長けた人物です。秦に大規模な土木工事を行わせて経済を疲弊させるという密命を帯びていました。
鄭国は大規模な治水工事を秦国内でプレゼンして、見事その責任者になります。韓の目論見通り秦に巨大な灌漑用水の建設します。長さ300㎞、灌漑面積72,800haと言われていますからかなりの規模です。
ただ、普通にこの工事は秦にとって有用なもので、逆に秦は豊かになってしまいます。工事中に鄭国がスパイであることがばれちゃうのですが、秦にとってメリットのある事業だったので処刑されることもありませんでした。
この灌漑水路は鄭国渠と名付けられ、現在でも利用されています。
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スパイ活動以外にも、韓には国家存続の道を模索する人物がいました。
儒教の大家・荀子の弟子と言われる韓非です。韓の王族である彼は国の改革を訴えました。しかし、彼は生来吃りがあり韓国内では軽んじられていました。そんな韓非の言葉は韓王はじめとする韓の首脳陣に受け入れられることはありませんでした。
ローマ皇帝のクラウディウスもそうですが、見た目や弁舌が理由で実際の能力よりも低く見られることは珍しくありません。
しかし、捨てる神あれば拾う神あり。韓非は自分の思想を『韓非子』という書物にまとめ、後世に残そうとしました。その韓非子を読んで韓非の非常に高い知性に注目した人物がいました。秦王・政です。
秦王・政は韓非を登用しようとしました。しかし、秦の大臣で韓非の兄弟弟子でもあった李斯の讒言によって登用は見送られてしまいます。そして最終的に韓非は李斯によって自殺に追い込まれてしまった言われています。
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紀元前230年、秦の将軍・内史騰が韓に攻め込み韓王・安を捕らえます。この戦いを以って韓は滅亡し、戦国七雄最初の脱落者となります。
韓王・安は紀元前226年に韓の遺臣が秦に反逆した際、その責任を問われ処刑されました。
内史騰の『内史』は官職名、名字は不明で『騰』が名前です。これまたキングダムではおなじみの人物です。
軍事大国の末路
紀元前228年、韓を片付けた秦王・政は強敵・李牧に対して王翦を起用します。王翦も李牧と同様に武廟六十四将、戦国四大名将の一角です。
更に秦はかつて長平の戦いで難敵・廉頗を排除した時と同様、趙国内に工作を仕掛けます。趙の幽繆王の寵臣・郭開は秦によって買収され、李牧を讒言しました。讒言を受けた幽繆王は李牧を処刑してしまいます。副将だった司馬尚は粛清を恐れて逃亡しました。
李牧を喪った趙に王翦とその副将・羌瘣を止める力はありませんでした。
武霊王以来の軍事大国・趙は李牧が死んだその年に滅亡しました。最後の趙王・幽繆王は現在の湖北省十偃市に当たる房陵に流されました。幽繆王と郭開のその後については特に記録はありません。
首都・邯鄲には秦王・政が乗り込みました。幼少時の住居を埋め、自分や母・趙姫を冷遇した人間を処刑したと記録されています。
幽繆王の兄と生き残った趙の遺臣は北方に亡命政権・代を建国します。
刺客・荊軻と燕、代の滅亡
趙の滅亡は他国に衝撃を与えました。特に燕の太子・丹は荊軻という人物を刺客として秦に送り込み、秦王・政の暗殺を目論見ます。紀元前227年。趙滅亡の翌年のことです。
即墨の戦いで斉の田単に敗れた影響もあり、燕には秦とまともに対抗する戦力がありませんでした。
荊軻による秦王暗殺は史記の中でも最も有名な場面ではないでしょうか。そしてみなさんご存じの通り暗殺は失敗し、荊軻も死んでしまいます。
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当然、秦王・政は激怒して燕と燕を支援する趙の亡命政権・代を攻撃します。暗殺未遂事件の翌年・紀元前226年。王翦率いる秦軍の前に燕・代連合軍は大敗北を喫します。
暗殺の首謀者だった太子・丹は逃亡しますが、王翦の息子・王賁とキングダムの主人公・李信に追撃され追い詰められてしまいます。
太子・丹は秦を恐れる燕王・喜、つまり自身の父親によって処刑されてしまいます。燕は太子・丹の首を秦に献上して許しを請いますが、結局紀元前222年に王賁の攻撃を受けて燕と代は滅亡します。燕王・喜は生け捕りにされました。
代王・嘉は逃亡して二度と中原の地に帰ることはありませんでした。趙の残存勢力も完全に消滅したことになります。