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【春秋戦国編】第7回 割拠する群雄 その3【胡服騎射 英雄王の栄光と悲劇】
商鞅の改革以降発展を遂げる秦に対して、魏と楚は脱落していったのはお話したとおりです。
秦への対抗馬として鎬を削ることになるのが趙です。元々趙は北を異民族が多く住む地域に接し、人口でも経済でも他の七雄に劣る弱小国でした。しかし、ひとりの英雄王の出現が世界の歴史を大きく変えていきます。
辺境の小国
紀元前325年、趙では武霊王が君主として即位します。史記にはこのときは年少であったため、先代からの遺臣・肥義の支えがあったとされています。
当時の趙はかつて晋だった地域の北側を支配していました。地図で見る限りは広い土地を支配していたように見えますが、その多くが山岳地帯で経済活動が可能な地域はかなり限られていました。また、驚異となったのはモンゴル高原に居住する匈奴などの遊牧騎馬民族の存在でした。
自動車や航空機が実用化されるまで騎兵以上の機動力を持つ兵種は存在しませんでした。戦闘能力は高いのですが、農耕民族では騎兵の育成に莫大なコストがかかります。その点遊牧騎馬民族は生活そのものが騎兵の育成となります。そのため遊牧騎馬民族は強い軍事力を持つケースが多く、農耕民族国家を圧迫しました。趙もその例外ではありませんでした。
趙の驚異は北だけではありません。南は戦国初期の覇権国・魏、東は経済大国・斉、西には後の統一国家・秦が趙を圧迫しました。更に趙の内部に食い込むように存在していた異民族の国・中山は大きな驚異でした。
紀元前318年秦の驚異に対抗するため魏や韓と同盟して秦を攻めますが、名将・樗里疾の前に敗北してしまいます。
武霊王の治世初期は国の力の大半を国防に費やす必要があり、特に軍事面では失敗を繰り返しました。
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軍事大国への道
紀元前307年、武霊王は仮想標的を中山に絞り込みさらに軍事改革に取り掛かりました。地理的にも中山が独立したままでは他国からの防衛も困難ですし、逆に他国に攻め込む際は常に後方に驚異を抱えたままになってしまいます。
北方の騎馬民族との戦いで騎兵の強さに注目した武霊王は本格的な騎兵の育成を目指します。元々中原では戦車による戦闘がメインで、騎兵は異民族をピンポイントで起用する程度でした。
当時の漢民族、まだ漢民族という呼び方はないので正確には華夏人の服は腰から下が一本の筒になった浴衣やスカートのような形でした。遊牧騎馬民族はズボンを履いていました。馬に跨って乗る時はズボンのほうが圧倒的に便利ですね。騎兵を育成するとなると当然異民族風の服を着用することになります。
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武霊王は最も信頼する家臣である肥義に相談します。
「私は自分が率先して胡服を着て騎射を行い臣民を引っ張っていこうと思う。しかし、世の人々はそんな私を非難するだろう」
肥義は武霊王に対して答えます。
「疑いを持って行動すれば成果も名声も得ることはできません。王が決心したなら迷ってはいけません。徳を論ずる者は世俗を気にしませんし、大きな功績をあげるものは大衆に迎合しないものです。自身の判断を疑ってはいけません」
肥義からの激励を受け取った武霊王は決意を固めました。
「政策は正しいと思うが天下の笑いものになるのが恐ろしかったのだ。私は天下の笑いものになったとしても改革を成功させ中山を攻略しよう」
趙国内の貴族階級の人々は武霊王の軍事改革・胡服騎射には否定的でした。先進地域の文明人が文化的に劣った野蛮人の真似をするなんてとんでもないというわけです。
特に反対したのが武霊王の叔父・公子成でした。公子成は政務に参加せず自宅に引きこもってしまいました。今で言うストライキですね。それに対して武霊王は自ら公子成の邸宅を訪ねて説得します。趙が現在苦境に置かれており、特に中山が脅威であり対策が必要なこと。そして、中山との戦いには騎兵の力が必要であることを粘り強く説得します。
公子成は武霊王の説得に折れ、自らも胡服を着て政務に参加しました。
中山攻略戦
前述の通り武霊王の目標は中山でした。中山は戦国七雄には含まれませんが、七雄に比肩する力を持った大国です。戦国七雄はどれも都市国家が発展して巨大化した国ですが、中山は白狄と呼ばれる異民族が建国した遊牧民族と農耕民族の特徴を持った国家でした。
紀元前306年。改革の翌年に趙軍は中山に攻め込みます。最終的には深入りした趙軍は中山軍に敗れますが、騎射戦術によって勝利できた戦闘も多かったようで武霊王は改革の成果を実感します。それと同時に中山攻略には単純な軍事力だけでは困難であることも悟ります。
遠征後すぐに秦、韓、楚、斉、魏に外交使節を派遣し同盟を強化。中山に集中できる状況を作るとともに、他国が中山を支援しないように根回しをします。孤立した中山を武霊王は何度も攻撃し、徐々にその領土を切り取っていきました。
紀元前298年に武霊王は王位を息子・恵文王に譲り、自らは主父という称号を名乗ります。王位を譲ったとはいえ引き続き軍隊を率いており、趙の実質的な支配者として君臨します。どちらかというと武霊王が軍事を担当し、恵文王が政治を担当する体制だったようです。
紀元前296年。10年の時間をかけて武霊王は中山を完全に滅亡させました。これにより趙の国土の歪は解消され、より外に強く打って出ることが可能になりました。同時に匈奴をはじめとする遊牧騎馬民族を従え、現在の河北省から内モンゴル自治区に及ぶ広大な土地を支配するに至ります。しかし、特定の拠点を持たず離散集合を繰り返す遊牧騎馬民族を完全に制御することは不可能です。趙に従わない勢力も当然ありました。そこで武霊王は趙の北側に防衛施設を建築します。趙の長城と呼ばれるこの施設は後に万里の長城の一部となります。
キングメーカー
武霊王は外交でも成果を挙げたことは前述のとおりです。
胡服騎射以前の紀元前315年に燕で内乱が起こりました。隣国の政治的混乱を嫌った武霊王は当時韓に人質としていた燕の王族・公子職を招いて次期燕王になれるように支援しました。この時は結局別の人物が燕の昭王として即位してしまいました。ただし、武霊王が支援した公子職が昭王ではないかという説もあります。
また、紀元前307年に秦では武王が趣味のウエイトリフティングで事故死してしまいました。武王には子供がいなかったため誰が後継者になるかで揉めましたが、当時燕に滞在していた武王の弟・公子禝を支援します。この人物は秦の昭襄王として即位します。
公子職と公子禝、昭王と昭襄王でちょっとややこしい話ですが武霊王が対外政策に積極的に動いていたことがわかると思います。
ちなみに燕の昭王と秦の昭襄王は二人共極めて優秀な人物で、この二人の活躍は大陸に大きな影響を与える事になります。とくに秦の昭襄王は始皇帝の曽祖父に当たる人物で、武霊王がいなければもしかしたら始皇帝という存在がなかったかも知れません。
紀元前296年に中山攻略を達成した後も武霊王は積極的に軍事行動を展開します。
現在の西安市にあたる秦の首都・咸陽近郊まで進撃して秦国内に衝撃を与えます。この時趙は秦と直接対決する意志はなかったようで、趙から秦に外交使節が送られ衝突は起きませんでした。
秦の昭襄王が趙の外交使節と面会した際、使節団の一人に只者ではない雰囲気の男がいました。昭襄王がその男について調べると、実は武霊王自身であることが判明しました。大胆にも武霊王は昭襄王の器量を量ろうと秦に乗り込んできていたのです。
そんな大胆不敵な英雄然としたエピソードが『史記』にも記されている武霊王にも最期のときが訪れます。
沙丘事件
キッカケは武霊王が王位を退いたときの話です。武霊王の後継者となった恵文王には腹違いの兄がおり、元々はこの兄・公子章が後継者候補でした。しかし、公子章は後継者から外されて恵文王が王になりました。
武霊王は別に公子章を嫌っていたわけではなく、趙の北に代という国を作り公子章をこの代の君主にしようとしました。しかし、公子章は恵文王に反発して反乱を起こしてしまいます。反乱は失敗して武霊王の元に逃げ込みます。そのとき武霊王は現在の河北省にある沙丘に滞在していました。軍隊等は率いていなかったようです。
趙軍は武霊王の館ごと包囲しました。公子章はこの時死んでしまいますが館の包囲は解けません。成り行きとはいえ武霊王に刃を向けた趙軍は処罰されることを恐れて包囲を続行していまいました。
包囲から3ヶ月後武霊王はこの世を去ります。改革を成し遂げ、軍事的成功を収め、一代で趙を強国に押し上げた英雄王の死因は餓死という悲惨極まるものでした。
武霊王は無残な最期を遂げましたが、趙は強力な騎兵を背景に秦のライバルとして鎬を削る事になります。
西暦782年、当時中華を支配していた唐は歴史上の名将を64人を祀ります。これを武廟六十四将といいます。戦国七雄で一番多く武廟六十四将に選出されたのは趙であり、その全員が武霊王以降の人物です。
史記のなかでは「武霊王は後継者に迷って命を落として笑いものとなった」と手厳しい評価がされています。しかし、20世紀の学者、政治家の梁啓超は「黄帝(神話上の帝王)以来の第一の偉人」と評価されています。