伊藤大輔『獅子の座』メモ(2)
伊藤大輔監督『獅子の座』について、2016年3月13日にツイッター上に連投したのをまとめました。
一番下に元ツイート最初の1つだけリンク貼っておきます。
「承前」削除と「。」補ったのと、文章が2ツイートに分かれたのをくっつけて改行直した以外は元ツイートのままです。
(画像は映画とは無関係で、実家にあった古い写真です。差し替えるかも)
伊藤大輔「獅子の座」メモ連投します。
「寶生」1953年6月号、記録映画「羽衣」(シテ野口兼資)と公開直前「獅子の座」をセットで「能と映畫」特集。グラビアの撮影スナップ集、消防車の放水と大扇風機で起こす嵐の撮影「舞台そつちのけであわてふためく群衆……」見守る舞台上の能楽師達「ずいぶん濡れて気の毒だなァ……」
特集巻頭は宝生九郎談「能と映画」。「主役の長谷川一夫さんが、花の講道館撮影後の貴重な六日の在京期間を、毎日水道橋能楽堂に通つて、指導にあたつた(宝生)英雄が悲鳴をあげる程熱心に稽古をされたのをはじめ、多くの出演俳優さんたちが能をよく研究、稽古された」
同号掲載「映畫物語 獅子の座」 あらすじというより物語をがっつり紹介。製作関係者のコメントは、映画サイドから亀田耕司(企画)、伊藤大輔、長谷川一夫、田中絹代。能楽サイドから亀井俊雄、藤田大五郎、宝生弥一、金春惣一。
江島尤一「獅子の座撮影随行記」堀田章吉「西鶴と勧進能」。無署名記事は、原作・映画の題材「弘化勧進能の解説」と「江戸ッ子のお能見物」。後者で紹介されている平野知貞「勧進能見聞記」が、松本たかし原作の、町人のパァパァお喋りの元ネタと判明。
「撮影随行記」胴体に大映京都撮影所と大書されたバスで能楽師達が修学旅行のように盛り上がりつつ撮影所に向かうところから、セットの様子、撮影の苦労など詳しく記録されて興味深い。撮影に参加した能楽師の名前も明記。
「高砂」宝生英雄
「翁」千歳:野口祿久、三番叟:茂山忠三郎
「熊野」辰己孝、佐野萠
「忠信」子方:寺井良雄
「墨塗」茂山忠三郎、茂山倖一
「石橋」親獅子:宝生英雄、仔獅子:野村諭
ワキ方 宝生弥一、宝生閑
囃子方 藤田大五郎、北村一郎、亀井俊雄、金春惣一
「寶生」1953年7月号。映画公開後の、出演した能楽師の座談会「獅子の座余聞」野村諭、野口祿久、宝生英雄、松本惠雄、前田忠茂。
野口祿久「僕の顔はまるで金語楼と金馬がミツクスしたような浅猿しい顔で、我ながらガツカリしたな(笑)」この方ほかにも面白発言が多くて楽しい。
宝生英雄は元々映画好きなのか伊藤との付き合いで詳しくなったのか、映画撮影のことなど熱く語る。出席した能楽師が口を揃えて伊藤の手腕と撮影スタッフの働きぶり、長谷川一夫、田中絹代、津川雅彦少年(と母マキノ智子)の熱心さを賞賛しているのも印象的。
一方、一部の大部屋俳優の態度については辛口の意見が多いが、宝生英雄が、勧進能の見物の中にいる、ある俳優の役作りや勉強ぶりを明かして「そういう熱心な人は一役もたされる。上下を着て「へーい」なんていつてるのはだらしがない(笑)」
宝生宗家が長男石之助に稽古をつける場面、長谷川一夫が拍子盤をピシピシするのが巧みで流石だったが、実際の笛の唱歌と拍子は宝生九郎が陰に入ってマイクを置いて実演。長谷川の拍子盤にはゴムのスポンジを置いて音が出ないようにしていた。
石橋のカット割は、笛の切れ目がわかるように「録音機にかけて、名称をフィルムに書きこんだ。呂(りょ)に願いますといつたら呂と書いてあるところを機械に入れゝばいゝわけです(中略)それを合せるのに一日以上かゝつた」 (宝生英雄)
獅子が舞台ですれちがう場面は、仕舞図解のように足取りを書いて監督に見せ、撮影所内のスペースの床に白墨で舞台の大きさに線を書き、橋掛りや一畳台を置き、宝生英雄自ら舞いながら割りふり、秒数を計り、舞台の合間に挟む他のシーンを入れるための細かい計算をした。
同号「獅子の座落穂ひろい」封切第一週の売上は全国トップ、「最近の日本映畫には珍しく」続映も敢行。加賀宝生の街、金沢市の映画館では謡本持参で入場料割引のサービスを行い大勢の観客が訪れたなど。
能楽協会機関誌「能」1953年8月号、座談会「能と映画 ー獅子の座を中心にー」出席者:伊藤大輔、井澤純(朝日新聞・映画批評家)、宝生英雄、齋藤太郎(「観世」主筆)、三宅襄(能楽協会理事、能楽研究家)。三宅は「獅子の座」映画化に当初から協力していた。
座談会中、続映が「十代の性典」と二本立てになったことが話題になり、「十代の性典」目当てで観に来た若者が「出てくると、入つた時とは打つてかわつて、シユンとしてね、獅子の座の事だけ考えて出てくる」(井澤純)
伊藤「大映では非常に危険視していたので、映画館全般に、決して能とか謡とかの言葉を使うなという布告を出したんです。一般の客が敬遠しやせんか(中略)これを取上げる時には、重役全部が不安を持つて反対したが、永田さん(大映社長)一人でいい切つた。「よし俺はやる」と鶴の一声でね……」
齋藤太郎から「忠信」で映像と謡のズレを指摘された伊藤「最後の整理つまり編集を三日でやつてしまつたから、無理なんです。もう三十時間あれば(中略)然し、そのことは弁解になりませんし、また弁解はしません。一たん、仕上げて渡したからは、責任は監督が負はねばなりません」
そのほか、脚本、演出上の疑問や苦言に対しても、伊藤はどう考えてなぜそうなったかをクリアに説明している。一方、セットの能舞台は勿論、稽古場の出来は自負しており、鴨居にかかった額(世阿弥の遺した文字を使用)が話題になると発言の最後に「(ト嬉しそうである)」が付く。
映画は芸能における長男次男問題がキーになっているが、伊藤によると、自らも気ままな次男から兄の戦死で跡取りになった茂山倖一(四世忠三郎)が、兄の苦しさがよくわかる、「石之助の上に怪しいまぼろしが立つ」と言ったそう。「裏千家の次男も見に来まして、同様の事を云つておりました」怖え。
面白いのは、津川雅彦少年を宝生宗家が養子に取りたがったというゴシップについて「宝生」座談会参加者はそれはさすがにデマと否定しているが、「能」では伊藤自ら「宝生さんから、どうだ、私の方によこさないかとお話があつたのですが」と話している。宝生英雄は遅刻参加で発言時は不在。さて。
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