『六平太藝談』小ネタ(2):御母堂の素敵少女時代とか
十四世喜多六平太は、十二世喜多六平太能静の娘が嫁いだ幕臣宇都野家の次男として生まれた。なので、能静の孫にあたる。
生い立ち的なお話は能ドットコムの記事が読みやすいのでリンク貼っておきます。
https://www.the-noh.com/jp/people/masters/kitaroppeita.html
能静の娘、つまり十四世喜多六平太の御母堂だが、少女時代のエピソードが好きすぎるので長いけど「名跡をつぐ」から抜き書きしてしまう。
*昭和40年版から。年表他「次男」だけど「息子が三人も〜末子のチビ」は昭和17年版、40年版とも原文のまま。
*圓朝の話の時とずいぶん口調が違うが、これは記録者が複数いるためとのこと。六平太が話をする折々に、たまたま側にいた人が記録しているので、その人の文体も反映されている模様。
私が喜多家の名跡をつぐことになった事情は、〜中略〜宇都野家に十二代(能静)の孫に当る息子が三人もゐるから、その末子のチビはどうかしらといふことになつたわけなのです。その旨を藤堂様(高潔侯)に申しあげると、早速その子を見ようといふお話。〜中略〜
私の母は、子供の頃山内家にあがつてゐました。そして全くの男装をしてゐたさうです。これは容堂侯の思召しであつたか、奥方のお物ずきからであつたか知りませんが、あるときこの山内家へ藤堂様がおいでになると、容堂侯のおそばに一人の少年が控えてゐる。藤堂様は物めづらしさうにじろじろ御覧になつて、その少年は誰かとおたづねになりました。容堂侯は、ちよつとあたまをお掻きになつて、「お恥しい話だが、実は屋敷外に設けた隠し児をこの頃引取つたものですから」とおつしやつたさうです。藤堂様も、ああ、さうですかとそのときはそのままでお帰りになつてしまつてから後で、あれは喜多の娘でございますと申しあげるものがあつて、藤堂様も、また例の悪戯ずきの山内侯にかつがれたかと、お笑ひになつたさうですが、その男装の娘が年頃になつて、お暇をねがつて、宇都野に縁組みしたことを藤堂さまも御存じでしたから、私のことを申しあげると、おお、あの娘の生んだ子かとお想ひ起しになつたわけなのです。
ちょっと…大名屋敷に上がった少女に男装って…小姓コスプレ的な何かかしら…それも殿様の御趣向あるいは「奥方のお物好き」のためかもしれぬとな…誰ぞ…誰ぞ早うマンガ化を…
六平太の父上についても、「ペラペラ(英語)が少し出来た」ので来航したペリーについて回ったとか、興味深い話が出てくる。しかし武家の商法でしくじって御一新あるある的に頼りないことになった時期もあり、そんな苦労話なども淡々と語られている。
(英語を「ペラペラ」って、懐かしい。しゅき)
喜多六平太自身は明治7年生まれだが、喜多を継がなければ出会えなかったであろう幕末期を生きた人達と交流し、その人達から更に古い話を伝えられて育った。
シャレのきつい悪戯好きの殿様(容堂侯って、いろいろクセ強かったみたいね…それが祟ってか長寿ではなく、六平太が生まれる前に亡くなっている)。お能の稽古が修身の勉強にシフトしてしまいがちな、西南戦争の古強者で偉い人系お素人。「水戸光圀が藤井紋太夫を斬ったあとに舞った演目は何でしょう」の話(これ好きすぎて書くと全文引用するしかないので、書かない)…
「今と違う常識のなかでの、人々の暮らし」の一端を垣間見るようでもあり。それも『六平太藝談』の魅力のひとつだなあと。