『能楽盛衰記』小ネタ:御一新の時代を生きた、落語みある能楽のひと
2018年4月29日の連ツイを元に書き足しました、というか引用増やしただけだな。最後に元ツイへのリンクひとつだけ貼っておきます。
池内信嘉『能楽盛衰記』下巻には、維新後の能楽師苦労話が紹介されている。
その中から、観世元規(太鼓方)の証言を抜き出してみる。
好みで抜き出しただけなので偏っています。全文は本を当たっていただきたく。
十三代の将軍家家慶公が御他界になり、水戸の浪人が現れて櫻田の騒動が起つて以来、江戸には腥い風が吹きました。(中略)主君の爲に盡さうと、實は遊び半分の生兵法を試み…
一時は若い能楽師たちも、撃剣の稽古などしていたという。
やがて幕府は瓦解、能楽師達は家禄も扶持も失い困窮することとなる。
元規の一家も住み慣れた家を売り、拝領地は命令に従って上地し、裏長屋での仮住まいを余儀なくされる。
其の建具のひどいのには驚きました。年來出入りの商人などは手傳ひに参つてくれ、これが尋常ならば引越しの喜びを述べるといふ所なのですが、引越のくやみを受けるといふ馬鹿々々しさ、實に心持の悪い事でした。
東京での旧大名方のお囃子相手で少し生活も楽になった頃。
手の怪我で一日休んだところ…
どういふ所から申し傳へたものか、宅に強盗が入つて生兵法に渡り合ひ、重傷を受けたなどと取沙汰いたされ、かくとは知らず二日程経て伺ひますと、御客様方はお驚きで、もはや傷は平癒いたしたかなどと意外のお尋ねに大笑ひになり…
知ってる。落語「花見の仇討」で見物が訳知り顔で滔々と事の次第を述べた挙句「じゃねえかと思ってさ」っていうやつだ。
お囃子は次第に評判を呼ぶ。
かうなると、日々諸侯方からのお使が裏店住まひへ参り、先づ差配人方に赴いて、
官軍「これこれ其の方の差配地内に観世佐吉様と申す方はおゐでになるか。
差配人「へいへいおゐでなされます。
官軍「どこだか案内せい。
と言つた調子で、當時恐れられてゐた官軍が慇懃に使命を傳へるのを見て、差配人はびつくりして立ち歸るといふ次第。
(中略)
又此の裏店へ武士が見えると、何も尋ねもせぬのに、「觀世さんはあすこです」と口輕に教へるといふ滑稽もありました。
一家は色々あって静岡に移り住み、何かと商売をやってみては失敗する。
今度は父が血氣の時分中島流の砲術を學び火技をも少し習ひ覺えて居りましたから花火屋と化けて賣出しますと、これは眞似をする事が出來ませんから餘程繁昌しました。
それでいい気になってやらかして御母堂からの怒られが発生するし、御一新の時代ならではの事情で商売から手を引かざるを得なくなるのだが。
一つ不思議の研究をしました。私の一軒置いて隣の家に化物が出るといふ評判で其の家には誰も住む人がなくなりました。私は綱の氣取りで我が住む土地に化物が出るとて出してはおかぬと其の家の持主に斷り、一夜を徹して見届申さんと出掛けますと、近邊の者は我れも我れもと恐い物見たさに寄つて來ました。
結局化物は出ない→雨の夜に出ると言われ→雨の夜を待って出かけリベンジ百物語→やっぱり化物出ないと証明→人も住むようになる。
良いことしたじゃないか元規。
この後、観世元規はなぜか「役人」?となって能楽から離れた時期があったようだが、能楽再興に伴い復帰、大正期まで活躍し、80歳の天寿を全うした。
それにしても言葉が良い。
「引越のくやみ」「花火屋と化けて売出し」「不思議の研究」「綱の気取りで」
もうG街道K助師匠の口跡で脳内再生されまくりですわ。しゅき。
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