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冷笑者よ、熱狂せよ

私には物事を冷笑するクセがある。周囲の熱狂に同調することが苦手だし、熱狂している自分すら冷笑してしまう。今回は、私のように冷笑癖のある人ほど「熱狂体験」を大事にした方が良いのではないか、との仮説について書いてみる。


部活に熱狂していた先輩

私は周囲が熱狂している物事に対して、その意義や実現可能性など余計なことを考えてしまう。そして考えた結果「大した意味がないこと」や「実現可能性が著しく低いこと」に気づいてしまい、熱意を失ってしまうのだ。

例えば、私は公立中学校のバスケ部に所属していたのだが、優勝を目指して練習する人を心の中でバカにしていた。「こんな弱小の公立校が優勝できるわけないだろ。優勝したいのならハナから強豪私立に入れよ」と思ってしまうのだ。そして予想通りに初戦敗退し、心の中で「ほらね」と得意になる。

部活に対して冷めていた私は、練習も遊び半分だった。そんなわけで本気で優勝を目指していた先輩に「もっと真剣にやれ!お前みたいなやつは邪魔だ!」とブチギレられた経験がある。当時は「うるさい人だな」としか思わなかったが、今となっては「あそこまで部活に熱狂できていた彼は幸せ者だったんだな」と思う。

これは決してバカにしているのではなくて、本当に羨ましい。私はすぐに「コレ、真剣にやっても意味なくね?」と思い至り、熱意を失ってしまう。私からすれば、熱意を保持して一直線に活動できる人は超人なのだ。

私のような冷笑主義者は「熱狂」という状態を手にすることが難しい。気を抜くと自分で自分を冷笑しかねない。ただ、そんな私にも数少ない熱狂体験がある。冷笑癖のある私にとって熱狂体験は非常に貴重だ。「自分、なんでこんなことにアツくなってんだ?」と冷笑せず、熱狂できることを大切にしていきたい。

私の貴重な熱狂体験

ここでいう熱狂体験とは単に「夢中になっていること」というより、もっとわかりやすく熱を伴っている活動を指す。「バカらしいな」と思うことはあれど、なぜかアツくなってしまう体験だ。

プロ野球チームの応援

私は「千葉ロッテマリーンズ」というプロ野球チームを応援している。小学生の時に野球の世界大会を観て、たまたまロッテの選手に憧れたのがきかっけ。今となっては、なぜロッテを応援しているのかはわからない。でも、それで良い。せっかく熱狂できているのだから。

野球ファンには知られたことだが、ロッテファンは熱狂的な応援をすることで有名だ。私もその一員で、最も応援が盛り上がるエリア(応援席)に行き、喉が潰れるほどの大声を出し、飛び跳ね、手を叩き、前後左右の見知らぬ人と喜びを分かち合っている。普段の私を知っている人が見たら、その豹変ぶりに驚くだろう。実際、妻にも驚かれた。

ダンスフェス

ダンスフェスといえば、重低音が鳴り響くなか、ある人は踊り、ある人は酒を飲み、ある人はナンパをし、ある人は怪しい植物を吸い込む、とてもガヤガヤした催しだ。具体的な名前を挙げると「ULTRA JAPAN」「EDC」「S2O」「サマソニ」など。

そんなダンスフェスにコロナ禍以前は毎年参加していた。ただ、私は酒や色恋(や怪しい植物)ではなく、純粋に音楽が好きで参加していた。昔からノリの良い曲が好きで、特に大学時代はクラブ・ミュージックをよく聴いていた。そのことを知ったサークルの先輩に誘われて参加したら、どハマりしたのだ。

凄まじい音圧。煌びやかな照明演出。大観衆。真夏の太陽光。湿った夜風。そして、大好きな音楽。その全てに身を任せ、自意識を捨て、音楽と一体になったときの高揚感がたまらない。ロッテの応援と同様、普段の私からは想像できないほどに身体を揺らし、声を出すが、そこに羞恥心はない。

なぜ、熱狂は心地よいのか

熱狂している時は「別人格」になっている感覚がある。そして、熱狂の最中はすごく気持ちが良いし、終わった後も晴れやかな気持ちになる。こうした熱狂の心地良さについて、掘り下げてみる。

その場限り

応援席やフェスで交流する人とは、その場限りの関係だ。自己紹介をすることもなければ、連絡先を交換することもない。たまたま近くにいて、イベントの最中はお互いに熱狂を共有し、それが終われば挨拶もなしに別れる。ただ、それだけの関係である。この距離感が心地良いのかもしれない。

エネルギーの発散

私は「一人で過ごすこと」や「自分のテリトリー(自宅近辺)で静かに過ごすこと」でエネルギーを補充する。他者との交流や外出は、こうして溜めたエネルギーを消費する行為なので、あまり好まない。

しかし、熱狂の最中は別だ。野球の応援では騒がしい応援席で負けじと大声を出すし、フェスでは隣の知らない人と肩を組んで踊り合う。もしかしたら、私は日常生活でエネルギーを充填しすぎて、いわば過充電の状態になってるのかもしれない。溜め込みすぎたエネルギーを応援やフェスで発散することでバランスを保っているのかもしれない。

自意識からの解放

日常生活では「自分はこういう人間である」という自意識に縛られている。「縛られている」と書くと、どこか不本意な感じもするが、必ずしもそうではない。本当は日常的に騒ぎたいとか、本当はもっと他者と交流したいとか、そういう話ではない。日常ではその状態が心地よいのだ。

ただ、たまには自意識から自由になって、意外性を発揮するのも良いのだろう。自意識に反した行動をするのは、自分に対しても、周りに対しても恥ずかしかったりする。熱狂はそうした羞恥心を無力化してくれるのかもしれない。

あとがき

本記事は、以下のYouTube動画の影響を受けて書いた。動画内でゲストとして迎えられているのは幻冬舎の箕輪厚介さん。箕輪さんといえば「意識の高いイケイケなビジネスマン」といった印象で、なんとなく避けていたのだが、この動画を観て印象が変わった。音声だけでも楽しめるので、是非。

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