病気不安症かも。でも、実は幸せ?
(追伸:書き進めるうちに哲学的な話になってしまった…)
私は心配性だ。特に「病気」に対する心配が強い。これは昔からのクセのようなもので、やめたくてもやめられない。
つい最近、そのクセが再発した。私は左顎にしこりがあるのだが「悪性腫瘍では!?」との不安に駆られた。耳鼻科にてエコーで調べてもらった結果、しこりの正体は正常な臓器であり、その臓器がやや下に降りてきているだけだった。
安堵した。しかし、心配性でなければ気にも留めなかっただろう。受診料は1960円。ケチな私にとっては悔しい出費だ。かと言って、受診しないと不安感に支配され続ける。心配性はお金を払って安心を買わねば楽しく生きられない。そう痛感した。
自ら脳梗塞を疑った小学生時代
私は昔から病気を過度に恐れ、生活に支障をきたしてきた。最古の記憶は小学生まで遡る。
当時、医療番組を観て「脳梗塞の初期症状にめまいがある」と知った。番組に煽られた私は「めまいがするかも…」と思い込み、脳梗塞の恐怖にとらわれた。恐怖心は日に日に増大し脳外科でMRIをするも、結果は異常なし。
今思えばバカバカしいが、当時は本気で恐怖していた。生活を不安に支配されて他のことを考えられなくなるのだ。
病気を心配するクセが再発
ここ数日、性懲りも無く「病気への過度な不安」を再燃させた。
数ヶ月前から左顎の下にある「しこり」が気になっていたのだ。この時点では恐怖心はなく「なんだコレ?」くらいの軽い疑問だった。
しかし、一昨日、偶然にもガン患者のnoteを読んでしまった。その記事をきっかけに「顎のしこり」についてネットで調べていると「悪性腫瘍」という忌々しい言葉を目にしてしまった。
ネットの情報だけで、しこりを悪性腫瘍と断定するのは不可能とわかっている。一方、悪性腫瘍でない証明も不可能だ。ネットでなんらかの症状を調べると、数多の可能性を示される。「なんらかの病気である可能性」を否定できない限り、私の不安は消滅しない。
年齢的に悪性腫瘍は考えづらい
悪性腫瘍の特徴とは合致しない部分が多い
ゆえに、私の「しこり」が「悪性腫瘍」である可能性は極めて低い
わかっている。わかってはいるが、確からしい情報を得たとしても「悪性腫瘍でない」とは言い切れない。1%でも可能性があると不安が収まらないのだ。「病気心配モード」になってしまうと、医者の診断を得ない限り安心できない。
病気不安症なのか?
自分でも嫌になるほどバカげた思考傾向だ。「心配しすぎ」と頭で理解しても、不安感で上書きされる。非常に厄介なクセである。これは「病気不安症」という障害かもしれない。
病気不安症は、自分は重篤な病気にかかっている、またはかかりつつあると思い込む精神障害です。
患者は病気にかかっている、あるいはかかるのではないかと深刻に心配しているため、強い苦痛を感じ、日常の役割を果たすのが難しくなります。
(中略)
患者はささいな身体症状や正常な身体機能(心臓の鼓動の自覚など)を誤解するために、過度に不安を抱きます。
診断されてはいないが、病気不安症の気があることは確かだろう。
まぁ、病気不安症と診断されようがされまいが、どちらでもいい。私は純粋に病気不安に陥らないようにしたい。不安に陥ると、頭の中が100%不安で支配されて行動意欲も食欲も失せる。今後の人生への絶望感すら抱いてしまう。これらの苦痛を味わわずに暮らしていきたい。
病気不安の根本原因
病気不安症の医学的な原因は不明らしい。
私は病気不安の根本原因は「生への執着」と考えている。「生への執着」は極めて健全なもので、それ自体を否定するつもりはない。しかし「まだ生き続けたい」という欲求がなければ、病気や死を恐れることもないだろう。つまり、病気不安症の人はすべからく生存欲求を持っている。
「まだ生きたい」と思える人は幸せ者とも言える。細かく考えれば「まだ人生を楽しみたい!」という積極的生存欲求と「死ぬのが怖いから生きるしかない」という消極的生存欲求のスペクトラムがありそうだ。が、理由はなんであれ「生きたい」と願っているのは共通する。
あとがき
私は積極的生存欲求が強い。この欲求の強さは、未来への期待感と関連していそうだ。私は今現在が幸せであり、今後も幸せが続くことを期待している。その幸せが病気によって失われること。これが恐怖の源泉。その意味で、私は年齢を重ねるたびに幾許かの安堵を覚える。余命が縮まることで「未来への期待感の総量」が減少するからだ。
ガンを15歳で宣告されるのと、80歳で宣告されるのでは心理的ダメージが違うだろう。年齢を問わずガンになるのは嫌だが、80歳ならばある程度諦めがつく。すなわち、年齢を重ねるたびに「未来への期待感の総量」が減り、それに伴って病気ないしは死への恐怖も弱まる。
私が生きる目的は「幸せの総量を増やすこと」にある。その目的を果たすリスク(不確かさ)は歳を重ねるごとに減る。当然、下振れリスクだけでなく、上振れリスクも減る。しかし、私は「快楽の存在」よりも「苦痛の不在」に価値を感じるので問題はない。
いつの間にか哲学的な話になっていた。病気不安には二度と陥りたくないが、自身の過去を振り返ると無謀な願いだろう。おそらく、今後も定期的に病気不安に陥る。しかし、病気不安に陥ることは、逆説的に今が幸せであることを示している。そう考えれば、少しはラクになれそうだ。そして、私ははやく歳を重ねたい。
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