「無職の罠」と「無職の才能」
私は子なし専業主夫(無職)だ。
「やるべきこと」といえば家事くらいである。
悠々自適な無職生活を羨む人がいるかもしれない。
しかし、無職の才能がないと「無職の罠」にハマって生活が苦行になってしまう。
無職の大敵は「退屈」
無職は自分と向き合う時間が多く、病みやすいとされている。
暇ゆえに余計なことを考えるからだ。
会社員は暇が少ないし、仕事さえしていれば幾許かの達成感を味わえる。
無職は暇だらけだし、周囲から課せられることは何もない。
「ストレスも少ないし、自由だし、サイコーじゃん」と思いがちだ。
しかし、日常的な楽しみを自ら見出せる人でなければ無職は務まらない。
膨大な時間を前に「何をすればいいかわからない…」となったらオワリだ。
無駄なことを考えて自己嫌悪に陥ったり、正体不明の不安にかられたりする。
これが無職の罠だ。
私は忙しい無職
私も無職の罠にハマったことがある。
身体の不調に敏感になり、余計な不安を抱いていた時期があった。
無職の罠を避けるべく、寝る前に「明日やりたいこと」をリストアップするようにした。
その結果、私は忙しい無職になることができた。
今は「やりたいこと」が多くて時間が足りないくらいだ。
以下、やりたいことの例。
掃除(趣味として徹底的に掃除をしている)
掃除以外の家事
読書
資格の勉強
数学の勉強
ブログやnoteの執筆
ゲーム
ゲーム実況の鑑賞
アニメ鑑賞
散歩
キャッチボールなど軽い運動
野球観戦
本当はこれら全てを毎日やりたいが、時間が足りない。
いい意味で消化不良のまま一日が終わっていく。
ゆえに「明日も楽しみだ!」と思えるのだ。
体力がない人は無職に向いている
体力がない人は無職の才能がある。
体力とは持久力のことではなく、イメージとしては充実感の許容量。
暇な時間が生まれないように予定を詰め込む人。
有意義な時間を過ごさなければと躍起になる人。
生産的な活動をしていないと気がすまない人。
このような人は体力が有り余っている。
体力があり過ぎると、暇になって余計なことを考えてしまう。
一方、私は日常生活を過ごすだけで体力を使い果たしてしまう。
掃除をして、飯を作って、読書をして、ゲームをすれば大満足。
余計なことを考える体力なんて残っていない。
どちらが良いか、悪いかと言う話ではない。
しかし、個人的にはフツーに暮らすだけで体力を使い果たして充実感を得られる人であり続けたいと思う。
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