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コートを買った、それと優しさ
以前、こんな詩をかいた。
ここにあるようにコートを探していたのだが、今日大きな駅に出る必要があって、こまごまとした買い物の途中にふらっと立ち寄った服屋さんで、とても素敵なコートを見つけてしまった。
とても素敵な色と形。
思わず、見入ってしまった。
ブルーグリーンという表記の、落ち着いた青に、シンプルな形。きっと来年も着られるだろう、毛羽立たなさそうなずっしりとした生地。
肩回りがゆるくカーブを描いて落ちていくデザインだったので、肩幅の広めな私には似合わないんじゃないかと逡巡していると、店員さんがにこにこと声をかけに来てくださって、試着させてもらった。
すると、危惧していたほどは肩幅が目立たず、後ろから見たときの生地のあまり具合がなんとも優雅に思えて、とても好きになってしまった。
チャコットという朱色に近いオレンジも試させてもらって、店員さんは「こちらの方が似合うと思います」と言ってくれたのだが、やはり最初に惹かれたブルーグリーンを買うことに。
何度も着せてもらって、小さなぐるぐるとした悩みににこにこしながら付き合ってくださった店員さんに、最後にお礼を言うと、「私も楽しかったです」と言ってくださって、本当に楽しいお買い物ができた。
私の何気ない行動や、無意識にとった行動が、誰かの一日を暗くしてしまっていたり、逆に明るくしていたりするんだろうな、と思い出させてくれる時間だった。
先日母に、「もっと優しい物言いをした方がいいと思う。」と伝える局面があった。ある問い合わせをしていて、そのときにこちらが損になりそうなことを確認すべく、質問してくれた母の言い方が、毅然として、ではなく少しきついように聞こえたのだ。
私は何気なく伝えたつもりで、そこまで深く考えずに思ったことを言ってしまったのだが、母はその言葉に少し傷ついたようで、その日はそれ以降、少し元気がなかった。
私は、やってしまった!という気持ちと、けれど、間違ってはないんじゃないか?という気持ちで、素直にそのことについて言及できないまま母とは別れたのだが、今日、買い物を終えて帰るころには、やっぱり間違っていたな、という気持ちになっていた。
私がしたかったのは、母の元気を奪うことではないのだ。
だから、こんな結果になってしまったのは、私の伝え方や言葉の選び方が悪かったのだ。
昔からこの手の失敗をよくしてしまっていて、特に気を許していて、言いたいことを素直に言える関係の人相手だと、よくこういう類の失敗をしてしまう。
一番大切にしたい相手のはずなのに。
何度も後悔してきたはずなのに。
人にやさしくて、「この人と一緒にいたい」と思ってもらえるようなひとになりたくて、なりたいのに、その動機が「自分のため」である以上どうしてもそういうひとにはなれないような、そんなずぶずぶした考えがちらついている。
昔、とても極端な性格のように思える人が、「人に優しくなれない自分が憎くて嫌いで、ある日から、人に優しくすることだけを考えて生きていた。」と言っていた。
だから、あなたもそうすれば、という彼に対して、なぜか反発心がでてきて
「私は、人の性格というものは、自分の意識でというよりも、環境や経験によって形作られるものではないかと思うから、それは違うと思う」
という旨のことを伝えた。
今思えば、意識的に人に優しくするなんて、「本当の優しさ」ではないのではないか、という幼稚な考えに基づいて、どうにか自分の持論に結び付けて、彼の考えを否定したかっただけのような気がする。
けれど、結果を見れば、意識的な優しさも、故意につくる暖かい雰囲気も、きちんと働く「本当の優しさ」なのだ。誰かの心を温かくする。
きっと、優しくなる努力をしない自分に向けての自己嫌悪が、反発心を大きくしてしまったのだ。
本当は、その人が好きで、大切にしたくて、優しくしたい気持ちがあるから優しくなる、という人間になりたいのだけれど、失敗が多すぎるから、意識して優しい人になってみようか。
脊髄反射のように優しさを返す人に。
きっとそうはなれないだろうな、と思う私と、じゃあどうしたって優しくなれないじゃないかと叫ぶ私がいて、今夜は暖かいお風呂にでもつかりたい。
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