どうしようもない完全な闇
胎内めぐりというものをご存じだろうか。
京都は清水神社にある施設。
菩薩様の胎内という設定で、真っ暗な 中、壁に巡らされた数珠を模した手すりだけを頼りに足を進めていく。
少しずつ進んでいって、もうどれくらい進んだのかわからないくらい進むと、ぼんやりと光った丸い石が見えてくる。
その石には梵字が刻まれていて、手を当てながらお願い事をすると叶うという。
私は、関西に住んでいること、清水寺の雰囲気が単純に好きなこともあり、清水寺にはこれまで数えきれないほど行っている。
清水寺は、ある程度までは無料で入ることができるが、本堂に入るには拝観料(400円)が必要だ。対する胎内めぐりは、拝観料(400円)が不要なエリアにある随求堂で行え、拝観料は100円だ。
私は、行こうと思い立ったらいつでも清水寺に行くことができるので、特に工事が始まってからなど、せっかく清水寺に来たというのに、拝観料のかからないところまでを楽しむ、ということもよくあった。
けれど、清水寺に来たら、毎回と言っていいほど、胎内めぐりには入る。100円をきちんと払って入る。
ただ真っ暗な中を手すりをたよりに進んで、ぼうっと光る石をなでてお願い事をして、光の中に戻ってくるというそれだけなのに、私は毎回毎回、胎内めぐりに入ってしまう。
なぜだろう、とついこの間清水寺に行ったときに、ふと思った。
そして、なぜここまで胎内めぐりが好きなのか、その理由を探してみよう、と思いながら、まだ胎内めぐりに入ったことがないという友人二人を誘って胎内めぐりに入った。
係の方に100円を渡して、靴をいれておく靴袋をもらって靴を脱ぐと、ひんやりとした冷気に足が包まれる。
昔、おばあちゃんの家の畳を、寒い冬でもはだしで踏みしめていたことを思い出す。
数珠に見立てた手すりをさわり、形を確かめるように、なぞりながら進んでいく。
手すりに導かれながら、角を曲がった後は、もう何も見えない。完璧な暗闇。
目を開けていても閉じていても何の変化もなくて、開いたり閉じたりしているうちに、今目を開けているのか、閉じているのかわからなくなるような錯覚に陥る。
これもゲシュタルトの崩壊というのだろうか、などと思う。
前をあるく友人の足を何度か蹴ってしまったり、後ろを歩く友人に、私のリュックにぶつかられたりしながらも、徐々にリズムをつかんで、前後に一定の距離が空いたことを感じる。
自分が暗闇の中に一人でいるような気がして、慌てて前を行く友人、後ろをきているはずの友人の姿を思い浮かべる。一人ではないはずなのだ。
最初のうちは、わーとかきゃーとか言っていたけれど、暗闇に体が慣れていくにつれて、少しずつ音が減っていく。
光も音もない、目も耳もわからなくなったころに、ぼんやりと再び目が動き始める。光る石が現れる。
現実に引き戻されるような気がして、あった!などと言ってしまう。
ひんやり、氷のように冷たい石に触れて、お願い事をする。
日々いろいろ思うことはあるのに、結局お願いすることは「みんなが健康に幸せにくらせますように。」これに尽きる、と思いませんか。
石から手をはなして、また数珠を頼りに進んでいく。
心なしか足取りは軽い。もう折り返しだとわかっている。もうすぐ光だとわかっている。
そのうちに光が見えてきて、階段がある。元の混雑にもどる階段。
あんなに頼りにしていた数珠からたやすく手をはなして、階段に向かう。一歩ずつのぼる。明るすぎて、視界が思うように戻らない。
戻ってきた。清水寺の混雑。いろいろな国の、いろいろな人がいる。
こんなにたくさん人がいても、胎内めぐりの中で手すりをつかまない人はいないんじゃないか、と妄想してしまう。
内容は知っているはずなのに、何度も何度も行きたくなってしまう。
普段の生活ではまずお目にかかれない、完全な、どうしようもない暗闇の中に入ることができる胎内めぐり。
この暗闇の中の感覚を忘れたくなくて、もし忘れているのなら思い出したくて、私は、何度も胎内めぐりをしてしまうのかもしれない。
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