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耳をすませばエモさは現実に

※ネタバレあります。

実写版「耳をすませば」。最近絶賛上映中でして、月島雫と天沢聖司の10年後の物語として話題の作品です。

基本的に実写版の映画についてはアニメや漫画を見てない状態で見るものと思っていて、アニメの内容やアニメの時に作った自分の想像が素直に実写を受け止められなくなるからアニメで見てしまっている時は実写版は見ないとしていた自分だったけれども、今回は見に行った。

なぜなら月島雫と天沢聖司は私にとって今の時代の「エモい」とか「チルい」の微妙な感情を表す言葉の象徴すべきキャラクターであり、私が今の時代の流行りを学ぶためのツールだったから、それを実写化をみたらリアルに「エモい」「チルい」の表現を学びだけではなく体現できると思ったし実際に「エモい」「チルい」を生活に取り入れたかったから。

結論、映画を見てジブリの「耳をすませば」から理解する「エモい」「チルい」の感覚は違ったものだった。やはりアニメと実写は違うということだ。

話の内容も夢を追い続けるのか差し迫ってくる現実に従うのかという夢に向かって進んでる人にとってかなり心に刺さる部分がある物語なうえに現実の方がどっちかっていうと正しさが見え隠れしちゃってたので私がジブリの耳すまから学んだ「エモい」「チルい」は見当たらなかった。

例えば2人で自転車に乗って移動するシーンはアニメだと夕暮れに前からくるトラックのライトで道路が照らされてまその横を2人で自転車に乗りながら通り過ぎていき、さらに街灯が一定の距離感で道を照らしていてその照らされた道路を2人だけで進んでいくシーンは実写になると妙にコミカルに見えてじわ〜っと心に響く映像には辿り着けなかった。

また、天沢聖司のバイオリンの演奏も今回は松坂桃李がチェロの演奏者(チェリスト)として実際に演奏していたんだけどもジブリの天沢聖司は努力を見せない天才が弾くバイオリニストって感じだったのに松坂桃李がチェリストとして演奏するとなんだか天才には見えず努力型の実力派演奏者に見えてしまった。心惹かれる演奏者には見えなかった。(松坂桃李がチェロの弦を弾くときに顔を前に出してニワトリみたいにリズムとってるのがなんか一生懸命さが前面に出ててあまり天沢聖司らしさがなかった)

私がジブリの耳すまから学んだ「エモい」「チルい」はどこへ行ってしまったんだ…と思ったけどもここで発想の転換。

実写化した時の「エモい」「チルい」はむしろ現実にもがく姿だということなのか?

月島雫は小説を書きながらも編集の仕事をする日々が描かれていてそれは上司に毎日無理難題突きつけられて、有給休暇も自由に取れず毎日忙しくて楽しさを見出せない日々が続く描写が描かれている。

ここには20代後半の私がこの映像に触れると共感の嵐なわけで夢っていらないし現実が幸せじゃなきゃ辛いだけだなって見えてくる。

何回か挫折して諦めて現実に生きようとするんだけれども結局天沢聖司と月島雫のストーリーは現実対して一緒にもがき続けようという姿でハッピーエンドで幕を閉じていく。

あれ、「エモい」「チルい」はどこ…?となるが現実に抗う月島雫と天沢聖司のちっぽけなコミカルな姿こそが2人の中での「エモい」「チルい」なんだと捉えれるのかなと。

実写化されることで分かったのはジブリの耳すまの「エモい」「チルい」の共感は作り出されているものであり実写の「エモい」「チルい」は作り出されていないということだった。

ということは普段の生活で毎日一生懸命前向きに仕事や生活を日々楽しく過ごすことは耳すまから学んだ「エモい」「チルい」ということなのではないかと思う。

私は達していない、と感じた。

私の感情の高まりは実写化をみるとコミカルになってしまうのは同じくらいの一生懸命さで日々過ごすことができていないから。どこか浮世離れしてしまっているからだと思う。

人生は上書きができる。最近松下幸之助さんの言葉が心に響くのと同時に実写版耳すまの映像からリアルの「エモい」「チルい」を見たことで私は毎日現実をもがこうと思っている。

月島雫と天沢聖司ありがとう。

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