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No.95 1994年 6年生「情報活用」でのディベートの授業「テレビからの情報があれば、新聞はいらない」

 初等科では1994年から6年生の時間割に「卒業研究」と「情報活用」がペアになり隔週1時間で導入されることになりました。「情報活用」の方法を学びひとりひとりの「卒業研究」に生かしていくという試みです。この学習は2002年に「総合的な学習」が始まる前年まで時間割に導入されていました。
 「卒業研究」のようすについては、No.32「1990年 6年生『卒業研究』の試行実践」を参照して下さい。後のエッセーでも1994年での実践をご紹介致します。1994年に正式に初等科のカリキュラムに「卒業研究」が位置付けられました。
 
 1992年頃から日本の教育界ではディベートに関心が向いていました。日本の子どもたちが自分の意見をしっかり持って討論をすることが苦手なことが課題になっていて、欧米の教育で行われているディベートが注目されるようになったと思います。
 いきなり討論する子どもを育成することは難しいので、「ディベートとは一定のルールにもとづいて行う討論ゲーム」に注目しました。この頃まで私が参加していた研究会の1つに「教育技術法則化運動」があり、その主要メンバーの岡本明人氏の『授業ディベート入門』(明治図書、1992年)がとても参考になりました。

 この著書の中で岡本氏は次のようにディベートについて述べています。「ディベートは討論の一種です。しかし、普通の討論と決定的に異なる点があります。それは、ディベートはゲームとしての討論だという点です。討論をゲームとして行うのです。この『ゲームとして』という点が重要なのです。この点がまさにディベートの特徴だからです。ディベートがゲームとして成立するためには、『一定のルール』が必要です。次のようなルールです。」として、5つのルールを提示しています。
 ルール1 論題を決める。
 ルール2 形式的に肯定側・否定側の二つの立場をきめる。
 ルール3 立論・反対尋問・最終弁論の三つの要素が必要である。
 ルール4 勝ち負けの評価をする。
 ルール5 時間を決める。

 岡本氏の著書を参考にして、私は次のようにディベートを進めました。
肯定・否定を振り分けられた(本人の希望ではなく形式的に振り分ける)4人ずつのディベーターが、1週間ほど下調べをして次のような手順で行いました。
Ⅰ『立論』  
肯定「立論」3分   否定「立論」3分 
 作戦タイム 2分
Ⅱ『反対尋問』
否定「反対尋問」4分 肯定「反対尋問」4分
 作戦タイム 2分
 否定「反対尋問」4分 肯定「反対尋問」4分
 作戦タイム 2分
Ⅲ『最終弁論』
 否定「最終弁論」3分 肯定「最終弁論」3分
Ⅳ『判定』

 1994年の6年生の「情報活用」でのディベートのテーマは「本を無理に読ませることはよくない」「読書感想文は必要ない」「漫画を図書室に入れることはよいことだ」「テレビからの情報があれば新聞はいらない」「広告は消費者を惑わすものである」「テレビコーマシャルは新聞広告よりも効果がある」「家庭でテレビ番組を規制することは当然である」「日本では子どもの権利条約は子どもをわがままにする」等の本・漫画・テレビ・新聞・広告などの情報の特性について学ぶものと、現実の社会で起こった話題から子どもに設定させて学ぶものがあります。5年生の国語の授業でもディベートの授業を取り入れていました。

 「テレビからの情報があれば新聞はいらない」のディベートは朝日新聞から取材があり、1994年6月28日朝刊メディア欄(当時このようなコーナーがありました)に掲載されたものを抜き書きします(縦書きを横書きにしますので、漢数字は算用数字にします)。

授業は1クラス42人の児童のうち、4人ずつが「新聞はいらない」というテレビ派と「新聞も必要」という新聞派に分かれた。ほかの児童は、両派の主張を聞き、最後に、どちらの意見が説得力があったかを判定する。
テレビ派はまず、4月26日、名古屋空港で起きた中華航空機事故でエアバスが炎上する場面を伝えるテレビニュースを、教室で映した。担当の岸尾祐二先生(39)から借りたものだ。
「この映像の迫力に新聞は絶対にかなわない」
「テレビはいつでもニュースをやっているからすぐにわかる。新聞は次の日の朝刊でしかわかりません。この時間の差は大きい、と思います」
 「新聞は文字が多いので、読んでもあきてしまう。テレビはキャスターがわかりやすく解説してくれる」
 これらの主張に新聞派は、次のように反論した。
 「朝刊には、単行本1冊分の情報がつまっています。テレビでは、こんなに情報はありません」
 「テレビのニュースはもう一度確認したいと思ってもできません」
 「テレビは一方的に右から左へ流れるだけ。新聞は自分のペースで見ることができる」
 「単行本1冊」というデータは、子供自身が新聞社に電話して聞いた、という。さらに両派のやりとりは続いた。
 「新聞はじっくり調べて書くことができる」
 「テレビだってニュースを伝えながら、調べているはずです」
 「でも、飛行機事故のときは不確かな情報がテレビで流れた」
 「新聞だって死んだ人の数はばらばらです。途中では、不確かなのは仕方がないと思います」
 テレビ派の1人の児童は、黒板に張ってあった4月27日付の主要6紙の一面を指して言った。見出しの死者数は「250人超す」「244人死亡」「240人超す」などだった。
 討議は新聞やテレビの誤報にまで及んだ。
 「テレビだと、間違ったことを映しても、それが本当のように思えてしまう。簡単に訂正できません」
 「新聞だってやらせや間違いはある。訂正は次の日しかわからないけど、テレビ番組の中ですぐできるし、やっています」
 話し合いの中で「情報ってニュースだけなの」という疑問を口にした子供がいた。「天気予報も情報じゃないですか」。「じゃあドラマは」。結論は出さないままだった。
 ディベートの判定は、討論参加者と司会者を除いた33人のうち、26人が「新聞も必要」と答え、大差で「新聞派」に軍配があがった。ディベートの立場を離れた討論参加者含む子供たち全員の本心でも「新聞はいらない」と答えているのは8人、「新聞もあっていい」と考えているのは34人だった。
 同校では、岸尾先生ら複数の教師が新聞記事を授業で活用してきた。「情報活用」は、その延長として6年生のカリキュラムに隔週1時間取り入れた。これまでに取り上げたディベートのテーマは「本を無理に読ませることはよくない」「漫画を図書館に入れるのはよいことだ」などだ。
 新聞を利用した授業実践を10年以上続けている岸尾先生は「まだ手探りの部分もあるが、小学生でもこういう学習が必要な時代になっている」と言う。
 
 この実践について、同じ紙面で上智大学の高桑康雄教授(教育学)のコメントが掲載されていました。「テレビやビデオ、新聞など身近なメディアの特質を学んだりすることは、これまでほとんどなかった。その点で、聖心女子学院の取り組みは意味がある。ディベートという手法も効果的だ」と評価して下さいました。 

 この記事に関して、1994年7月12日の「朝日新聞」朝刊の「主張・解説面」に参議院議員の森山真弓氏の「私の紙面批評」の冒頭で次のように紹介されていました。
 
 6月28日メディア欄で「テレビがあれば新聞は?」と題して、都内の小学生の授業での討論を紹介している。『いらない』派は時間に差がある/字が多くあきるという。『いる』派は情報が多い/もう一度確認できるという。両派に分かれて議論し、結論は大差で『いる』派に軍配があがったという内容だ。
 大人の間でも同じ話題が時々出る。最近はスポーツ紙も毎日、政治記事をのせ、それがまた短く、分かりやすく、適当に面白く、ポイントをつかんだ書き方で、読者をひきつけようとしている。とりあえずの話題を知るにはこれで十分、という人もいる。新聞のライバルも多様になってきた。

 今回の「情報活用」でのディベートのようすは、カトリック女子教育研究所で発行している「カトリック女子教育研究」第4号(1995年6月20日発行)に「初等科における国際理解教育の実践―学校としての取り組みをめざして―」というタイトルで執筆しました。ディベート以外に、やはり1994年から始まった「卒業研究」「聖フィリピン・ドシェーンフェスティバル」と以前から行ってきた国際社会に目を向けるNIE、6年生社会科での異文化理解教育、1984年から始まった「ハイチデー」などを執筆しました。これらについては後日エッセーでご紹介します。

 今回のディベート授業は1994年の実践です。およそ30年前のもので、コンピュータがまだ初等科の教室には入っていない時代です。もちろん、スマートフォンなどありません。現代でディベートをするとしたら「スマホからの情報があれば、新聞もテレビもいらない」という論題になるでしょうか。
 

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