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ガテマラのグリンゴ

1997年10月に会社を辞めたあとに、年休消化中にグアテマラのアンティグアのスペイン語学校に行った。その時に出会ったマカデミアナッツ栽培の農場を経営していたアメリカ人の話である。  南米旅行者の間では、中米グアテマラのアンティグアはスペイン語を学ぶ街として知られている。人口4万人のこの街には40を超えるスペイン語学校があり、ここでスペイン語を学び南米大陸へ南下してゆくバックパッカー達は多い。 このアンティグアの街の郊外に一人のグリンゴが住んでいる。グリンゴとは今ではメキシコ

    • 南米通信 3 シートラウト、そしてドラード (フライの雑誌 No.44 1998年初冬号掲載)

      ■一九九八年三月一二日  今、プンタ・アレナスという街にいます。明日、ここからフェリーに乗ってフエゴ島へ行きます。前にフエゴ島に行ってから九年。きっと「二度と来れない」と思っていました。しかし、それと同じぐらい「もう一度来てやる」と思ってました。結局ぼくは来ました。ただし九年という時間が必要でした。本当に必要だったのかはわかりませんが、それだけの時間が過ぎたわけです。  この九年の間にフエゴ島はずいぶん変わったという話を聞きます。今やシートラウトの川としては世界一として知られ

      • 南米通信 2 カンタリアとモスカルドンフライの雑誌 No.43 1998年初秋号掲載

        ■一九九八年一月一三日  一二月二七日に日本から合流した友人二人と年末から年始にかけてバリローチェ、エスケルと、アルゼンチンの方を回ってきました。一人が帰国し、残った一人に別行動を提案しました。いささか大人げないかな、とも思ったのですが、ぼくは「自分の旅」がしたくなったのです。旅はひとりです。今は一人で気ままな状態。再びコジャイケにいます。  そろそろこの街を離れたいとは思っているのですが、トラックの修理にかかった費用を保険会社から受け取るのに手間取ってます。このままではコジ

        • 南米通信1 ここでないどこかへ - Somewhere but here (フライの雑誌No.42 1998年初夏号掲載)

          ■一九九七年一一月五日  日本をたって三日、今、チリの首都であるサンチャゴの街のカフェ屋にいます。  日本から一緒に来た友人とは別行動にしました。ものを書くのはどうしても一人の時でないとできません。別に他人がいてもいいのですが、無視し続けることになります。そこで、書き物があるから、と言ってしばらく別行動にしました。それに旅に出た時には一人の時間が必要ということもあります。  サンチャゴはいい街です。お姉ちゃんがきれいで、とくに女子高生はたまりません。もっとスペイン語が話せたら

        ガテマラのグリンゴ

        • 南米通信 3 シートラウト、そしてドラード (フライの雑誌 No.44 1998年初冬号掲載)

        • 南米通信 2 カンタリアとモスカルドンフライの雑誌 No.43 1998年初秋号掲載

        • 南米通信1 ここでないどこかへ - Somewhere but here (フライの雑誌No.42 1998年初夏号掲載)

          お世話になった皆様へ

          (釣り雑誌に掲載された「退職メール」です。次回からパタゴニアの釣行記です。) 本来なら、はがきでご挨拶というのが筋なのでしょうが、メールにて失礼させていただきます。また形式ぶった言い回しや書式も一切省略でまいります。 10月20日付けで退職した浅野でございます。8年半にわたりお世話になったすべての皆様、本当にどうもありがとうございました。 よくこんな自分が8年半も勤まったな、と思っています。思えば昭和63年の8月20日、当時の就職解禁日のことでした。あんな景気の良かったバブ

          お世話になった皆様へ

          ライズなし  The Poer Of Love をめぐるストーリー

          男は古いオービスの竿を持ってサンフランスコにいた。 チャイナタウンの入り口の門をぬけ、ブッシュストリートを渡り100mほど進んだ左手にオービス・ショップはあった。男は1階のアウトドア・ウェアを扱うフロアを抜けると、2階の釣り道具売場へ上がり、古いオービスの竿を店員に差し出した。 「この竿の修理を頼みたいんだ」 8フィート、6番、3ピース。「トラウト」と名づけられたその竿は、男のものではなく男の友人の預かりものであった。長めの竿が流行の最近ではあまりぱっとしない竿ではある。 も

          ライズなし  The Poer Of Love をめぐるストーリー

          カーティスクリーク幻想

          友人の故郷は千葉である。職場は実家から通えない距離ではなかったが、都内にアパートを借り実家には戻ろうとしなかった。 「だって、千葉にはヤマメいないじゃん」 と言うのである。 「千葉にヤマメがいればなあ」 もしそうならば、彼は千葉に住んでもいいと思っている。真偽のほどが定かではない噂はあったがふつう千葉県には鱒類はいないとされいる。山はどこも低く、地質も砂または粘土で渓流魚が生息している川などない。日本広しといえど渓流魚がいないのは沖縄と千葉ぐらいではないかと言う。 そんな彼が

          カーティスクリーク幻想

          千葉県でも鱒釣りができる夷隅川フィッシングパーク

          夷隅川フィッシングパークは千葉県の中でのおそらく唯一の自然河川を利用した管理釣り番である。(※現在は閉鎖です。2024/04/20)房総半島の勝浦あたりを水源にし大きく蛇行しながら大原で海に注ぐ夷隅川の中流、大多喜町の市街地の外れにある。いすみ鉄道の大多喜駅から徒歩一五分なのでその気になれば列車で行ける。 釣り場の環境はお世辞にも良いとはいえない。川底は砂地で粘土質の石とも言えないような粘土質の塊が少々、ごく一部を除き落差もなくタラ~と水が流れている。水深浅く、透明度も低い。

          千葉県でも鱒釣りができる夷隅川フィッシングパーク

          ウォールデン ソローが住んだ、あの場所で釣りをした

          深夜なにげなくテレビのスイッチをつけると、きれいな湖の畔を歩く作家のC.W.ニコル氏の姿が映し出された。一四歳のときにヘンリー・デビッド・ソローの『ウォールデン』を読んだニコル氏が長年の憧憬を抱き続けるかの地を訪れる企画のようだった。その湖はウォールデンの池だった。ニコル氏にとって『ウォールデン』との出会いは北極探検やアフリカでの国立公園の設立等、その後の人生の原点だったようだ。本当に一四歳のニコル少年はソローと『ウォールデン』にインスパイアされたらしいのだ。 今さら説明す

          ウォールデン ソローが住んだ、あの場所で釣りをした

          折れたロッドをめぐって

          ミッシェルはかわいい。そのうえ日本語も達者だった。 私の勤務する部署は毎年海外から企業研修生を受け入れており、彼女は夏の三ヶ月間預かっていたアメリカ人の女子大生だった。職場では私が最年少で年も近く、お世話役を仰せつかった私は、積極的な働きかけもあり休日のデートすることになった。 「今度の日曜日、フジヤマにドライブ行こうよ」 彼女はニッコリうなずいた。 当日、車内での会話ははずみ、ぼくたちはいい感じで富士五湖めぐりをしていた。東名高速経由で本栖湖、西湖、精進湖からを見て河口湖へ

          折れたロッドをめぐって

          カムバック

          東京に戻ったAは神様の話をするようになった。 古代ユダヤと日本の関連性を話し、現在の状況を自分の都合の良いように解釈し、近い将来に救世主、メシアが現れるのだと得々として語るようになった。別の友人には自分こそはそのメシアであると、博多から東京までの車の中で延々とやってのけたらしい。転勤で数年ぶりに東京に戻ったAは釣りに行く車の中で口を開けばそんな話ばかりするようになった。 釣りに行くときのはずんだ気持ちも台なしである。最初は適当に受け流していたが会うごとに話がエスカレートして

          カムバック

          虹鱒が棲む深い谷で

          「山やってましたよね。ザイルも買ったんです」とSは言った。 その谷は上流に昭和初期に造られたダムがある。ダムには誰が放したのかは知らないが虹鱒が棲んでいた。Sから一枚の写真を見せられたことがある。Sが高校生のときに山道を三時間かけてそのダムに行き釣り上げた虹鱒の写真だった。 ダムはトロッコを使って造られたので林道はなかった。その事が自然繁殖する虹鱒を守ったのだろう。ワイルドですよという彼の言葉を裏付ける見事なひれをしていた。 高校生のSはダムに行くのに友人と谷を溯行して

          虹鱒が棲む深い谷で

          絶句

          出張先で血尿に気がついたのは1月26日のことだった。赤く染まった便器にぎょっとしたが痛みは全くなかった。長期出張から戻りようやく2月6日の夕方に家の近所の泌尿器科クリニックに行った。 まだ血尿は続いていた。最初は出ないが途中すぐに赤い血が混じり、最後に血はまた収まる。最初から最後まで真っ赤という訳ではなく相変わらず痛みもない。早速血の混じった尿検査をしてもらった。クリニック内の簡単な検査で内臓疾患ではなく、可能性としては石か癌だと言われた。石の場合は腰のあたりが痛くなるので

          ハートの火を消して

          新幹線とレンタカーを使って五月にイイ思いをした東北の川にまた来ました。いやぁ五月は良かった。フライフィッシャーなら誰でももっているような川でしたが、ポイントごとにヤマメが飛び出し自己記録更新の泣き尺ヤマメを含め、型、数とも今までにないほど釣れました。 もう顔はだらしなく緩みっぱなし。魚はいるし釣り人はいないし、ああフライをやっていて良かったぁ・・・と幸せをかみしめたあの日。思えば、その日がフライフィッシャーとしても最良の日だったのかもしれません。 夢よもう一度と辛抱たまら

          ハートの火を消して

          炎の大地のシートラウト

          マゼラン海峡の向こうに炎の大地があり、そこに大川が流れ、その川が海に戻る場所に川と同じ街がある。 午前四時、隣室の泊まり客が部屋の壁を叩いた。イヤホンで聴いてたボブ・マーリーの音が漏れていたのだろうか?念のためにボリュームを絞った。それでも壁を叩く音は止む気配はなかった。外国の田舎の深夜のホテル。眠れぬ夜、不安、孤独。それを紛らわすささいな娯楽でさえ今の自分には許されていないらしい。 「かけた金の分だけ苦労をする」と言われる南米の旅はしかし、たいしたトラブルもなく順調に進

          炎の大地のシートラウト

          一九九八年初夏、ヘンリーズフォーク

           一度だけ中沢さんと一緒に釣りをしたことがある。 「よかったら、南米の帰りにアメリカで一緒に釣りをしませんか」  というメールを編集者の倉茂さんから受け取ったのは一九九八年の四月、サンティアゴでのことだった。ぼくはまえの年の十一月からパタゴニアを釣り歩いていたが、チリの首都サンチィアゴまで戻っていた。そこで次の行き先も決められないまま漫然と時間を過ごしていた。パタゴニアの釣りシーズンは終っていた。 「そうか、その手があった」  北半球では、まさに鱒釣りの季節が始まったばかりだ

          一九九八年初夏、ヘンリーズフォーク