ひきこもりの息子殺害事件(2020年1月)を受けて考えること。
以下、NHKニュースから抜粋。
77歳の父親が、ひきこもり状態になっていた53歳の息子を殺害した罪に問われている裁判員裁判で、検察が懲役12年を求刑したのに対し、鹿児島地方裁判所は「同情に至る面はある」として懲役6年を言い渡しました。
鹿児島市田上台3丁目の佐藤勉被告(77)はことし1月、自宅前の路上などで、同居していた53歳の息子を日本刀で切りつけるなどして殺害した罪に問われています。
これまでの裁判では、被告が引きこもり状態の息子から暴言を浴びせられたり暴力を振るわれたりしていたことや、犯行当時、「殺されるかもしれない」と考えて日本刀を持ち出していたことが明かされ、弁護側は殺意は無かったと主張していました。
17日鹿児島地方裁判所で開かれた裁判で、岩田光生裁判長は「被告は被害者を追いかけて切りつけたうえ、倒れても切りつけることをやめなかったことなどから、殺意があったと認められる」などと指摘しました。
その一方で、「息子から長い間暴言や暴力を受けていたことを考慮すれば、同情に至る面はある」と述べ、検察側が懲役12年を求刑したのに対し、懲役6年の実刑判決を言い渡しました。
裁判の終わりに岩田裁判長は「被害者のことで苦労してきたことは理解できました。絶望することなく刑を全うし、社会に戻って奥さんと暮らしてください」と被告に語りかけました。
以上、抜粋。
「精神障害、ひきこもり=(イコール)危険」というわけでは決してない。
しかし、他者(地域住民や支援者さえも)の中には、そういった先入観が拭えないのも「現実」。
日頃から暴言や暴力があり、父親は歳を重ね体力も気持ちも次第に弱くなってきた。
子どもの将来、親亡き後が心配といった不安が、ただただ毎日が恐怖といった不安に変わってきていた。
息子の存在が恐怖に変わってきて、それでも親だから側にいないといけないという「現実」に苦しめられてきた。
他者はその「現実」を見て見ぬふりすることができる。でも、家族はその「現実」から目を背けることはできないのか?
日本は、自己責任と親・家族の責任や役割が非常に大きい。
OECD(経済協力開発機構)の調査に人間関係の豊かさを示す指標「ソーシャルキャピタル(社会関係資本)」の指数をはかる調査、つまり、社会的孤立の状況、友人やグループといった他者との関わりが無い人の指数をはかる調査が2017年にあり、オランダ2%、アイルランド3%、アメリカ4%弱、という中で、日本は15%以上もある。
これは、「本当に困ったときに頼れる人がいない」という人がこんなにもいる、そんな生きづらい社会になっていると捉えなければならないという「現実」。
その「現実」さえも、他人事のようにしていいのだろうか?
そんな寂しい地域社会でいいのだろうか?
この度の事件は、父親が加害者で息子が被害者ということだけではなく、この親子がこの今の社会の被害者であると捉えなければならない。
かごしま8050ネットワークには、ひきこもり状態の本人やその親から多くの相談が寄せられる。
相談の本質の部分は、この親子、自分たちのことを、親がいなくなった後も、ちゃんとこの社会は受け入れてくれるのだろうかということ。
自分たち家族は、もう、他者の「現実」の中にはいないものとして扱われているのではないかという絶望の淵にいると感じておられる。
今回の事件で父親は、「これまで妻と2人で分かち合って頑張ってきた。神様が与えた試練だと思っていた。しかし、その試練を乗り越えられなかった」と話していた。
私はどのような子育てにも、そのような試練など無いと考えている。
私たち一人ひとりが、この社会をどのように変えていかなければならないか、あらためて考える機会にして欲しい。