実業家外伝 #2 岩﨑 彌太郞(いわさき やたろう)

序章

 実業家外伝2人目は岩﨑 彌太郞です。
 彼は、日本の実業家であり三菱財閥の創業者です。三菱財閥は、俗に三井、住友とともに三大財閥ですが、三井、住友が三百年以上の史を持つ旧家なのに対して、三菱は明治期に政商として、巨万の利益を得てその礎を築いたという違いがあります。
 現在でも、三菱グループは金曜会と呼ばれ、三菱商事三菱重工業三菱UFJ銀行の「三菱グループ御三家」を筆頭に、多数の日本を代表する企業が所属しています。

 ちなみに、金曜会の由来は、三菱グループ29社の会長や社長がメンバーとして毎月第2金曜日の正午から午後1時半に三菱商事本社ビル21階にある大会議室で開催されるたことに由来しているそうです。

何をした人なの?

 彼は、農民から蔑まれるほど低い身分であったのにも関わらず、明治の政商として巨万の富を築いた人物として有名です。坂本龍馬や渋沢栄一とも交流があり、明治維新において非常に重要な役割を担った経済人です。

出世するまで

 では、彼の生い立ちからみてみましょう。
 岩﨑 彌太郞は明治維新から33年前の天保5年(1835年)に、「地下浪人(じげろうにん)」の岩崎家の9代目として生まれました。地下浪人とは、土佐藩における身分の一種です。土佐藩の階級制度が気になった方は以下の記事を見てみてください。地下浪人は文字通り、階級制度の最下層にあります。

 当時、岩崎家は非常に貧しく武士からは差別され、農民からも蔑まれていました。貧困と差別のなかで育ったため、彼は強い反骨精神を持ち合わせており、立身出世を目指していました。
 彼は幼い頃から文才に恵まれ、土佐で最も高名な儒学者、奥宮慥斎(おくのみや ぞうさい)に学びました。
 彼は明治維新の14年前に幕府を揶揄したというエピソードが残っています。先見の明があったことが窺えます。また、好奇心が旺盛だったとも伝えられています。

ペリーは7隻の軍艦を率いて再びやってきた。神奈川沖(今の横浜)に錨を下ろした黒船の迫力に圧倒されて、日米和親条約を締結したのは安政元(1854)年。その年の秋、彌太郎は江戸詰めとなった奥宮慥斎(おくのみやぞうさい)の従者としてついに江戸遊学のチャンスをつかんだ。彌太郎が舞い上がったのは想像に難くない。ただでさえ、苦しい生活だったが、おそらくは母美和の強い意向であったであろう、両親は先祖伝来の山林を売って遊学費用を捻出した。

そのころ、武市半平太は鏡心明智流の剣を江戸で学び高知に戻っていた。坂本竜馬は江戸の千葉定吉の道場で北辰一刀流の修行中だった。板垣退助や後藤象二郎はまだ高知にあった。明治維新まであと14年だった。

江戸に着いた彌太郎はまずは江戸見物。奥宮慥斎と来る日も来る日も好奇心丸出しで見て歩いた。筋違御門の前に来たとき、大きな声で

「まっこと、徳川の天下も、もはや末じゃのう」。

仰天した慥斎、慌てて彌太郎の袖を引き、

「ばかが。場所柄もはばからず何ちゅうことをいうがか!」と叱責すると、

「大切な御門を警護するがに、あんな老いぼれじゃったら、メリケンに侮られるがもやむを得んぜよ」。

幸い江戸の人間には、土佐訛りはにわかには理解出来なかった。

慥斎の尽力で、彌太郎は念願の安積艮斎(あさかごんさい)の塾に入る。見山塾といい、駿河台にあった。艮斎は当時の最高学府である昌 平黌(しょう へいこう)の教授で名声は全国に轟いていた。筆頭塾生は彌太郎の親戚でもある岩崎馬之助だった。

https://www.mitsubishi.com/ja/profile/history/series/yataro/03/

 彼は21歳の時には、江戸へ遊学し安積艮斉(あさかごんさい)の塾「見山塾」に入塾します。安積艮斎は江戸末期の朱子学者であり、安積艮斎が江戸で開いた私塾では、吉田松陰や高杉晋作らが門人として学んでいました。そして、ここでも彼は優秀な成績を収めていたようです。

 しかし、安政3年(1856年)に父親の岩崎弥次郎が酒の席で喧嘩をして投獄されてしまったことを知り、江戸で遊学していた岩﨑 彌太郞は勉強を切り上げて土佐へと帰国することになりました。父親の免罪を訴えたことにより弥太郎も投獄され、村を追放されました。

 その後、蟄居(ちっきょ)中であった吉田東洋が開いていた少林塾に入塾し、明治政府で板垣退助たちと活躍する土佐藩士の後藤象二郎(ごとう しょうじろう)と出会いました。

 蟄居(ちっきょ)とは、江戸時代に科せられた刑罰であり、武士が閉門のうえ、自宅の一室に謹慎させられることを指しています。

 身分に関係なく才能を認める吉田東洋によって、彼はその才能を遺憾なく発揮していくことになります。

開成館長崎商会の主任に就任
 
岩﨑 彌太郞は、開成館長崎商会という土佐藩の商組織の主任となります。貿易商人であるウォルシュ兄弟や武器商人のグラバー、クニフラー商会と取引をしています。欧米商人から武器や船舶を輸入したり、木材や強心剤・防腐剤として使われていた樟脳・鰹節など土佐の物産品を輸出していました。
 このように欧州の各商社と取り引きをして、彼はビジネスの腕を磨いていったのです。
 一方、 慶応2年(1866年)には、坂本龍馬の仲介により薩長同盟が成立し、翌年には坂本龍馬の脱藩が許されます。これにより、「亀山社中(かめやましゃちゅう)」は土佐藩が引き継ぎ、場所も隊員もそのまま「海援隊」となったのです。
 亀山社中(かめやましゃちゅう)とは、貿易や開運などを行いながら倒幕運動への参加を企図した政治集団であり、日本最古の商社と言われています。
 
彼は慶応3年(1867年)、後藤象二郎により藩の商務組織・土佐商会主任、長崎留守居役に抜擢され、藩の貿易に従事しました。坂本龍馬が脱藩の罪を許され海援隊が土佐藩の外郭機関となると、藩命により隊の経理を担当します。

九十九商会の経営者となる
 明治元年(1868年)、長崎の土佐商会が閉鎖されると、大坂の土佐商会に移りました。翌年10月、土佐商会九十九(つくも)商会と改称しました。  
 明治4年(1871年)には廃藩置県によって土佐藩官職位を失った岩崎弥太郎は、九十九商会の経営者となります。
 九十九商会は経営幹部であった川田、石川、中川亀之助の「川」の字をもとに、明治5年(1872年)に、「三川商会(みつかわしょうかい)」という名前に社名を変えました。この時、岩﨑 彌太郞が代表でなかった理由は、事業からの「引退」を表明していたからでした。この時の彼は、土佐藩が解体されて地位を失ったことで、政治家になりたいという気持ちが盛り上がっていたそうです。
 しかし、彼が政治家になるチャンスは得られず、ほどなくして商会のトップに復帰します。
 こうして、彼は実業家として人生を全うする決意を固めました

三菱商会の誕生
 廃藩置県後の明治6年(1873年)に、廃藩置県により土佐藩は消滅し、彼は三川商会の経営を引き受けることとなりました。同年に社名を三菱商会と改称、自ら「社主」に就任し、ここに名実ともに実業家・岩﨑 彌太郞が誕生しました。

 今では誰もが目にしたことのある三菱のスリーダイヤモンドマークは、この時に土佐藩主の山内家の三葉柏と岩崎家の三階菱の家紋を組み合わせてできたものです。

海運業のトップとなる
 当時、海運業最大手は国有企業だった「日本国郵便汽船会社」でした。しかし、明治10年(1877年)に起きた士族の反乱・西南戦争では持てる力の全てを注いで政府軍の輸送に当たり、結果、三菱の海運業は当時の日本で王座の位置を占めるに至りました。

 彼は従業員教育や顧客満足度の観点などから、経営をしっかりと行なっていたというエピソードがあります。

店員たちがお客様に温和な顔つきで接し、お客様に和やかな気分を与えるため、彌太郎は、三菱商会の店頭に「おかめ」の面を掲げました。この「おかめ」の面を見た福沢諭吉は「店内に愛敬を重んじさせているのは、近ごろの社長にはできぬこと。岩崎は商売の本質を知っている」と感心したと伝えられています。

https://www.mitsubishicorp.com/jp/ja/mclibrary/roots/vol08/

 この当時、日本国郵便汽船は横柄な態度で有名で、あまり良い評判はありませんでした。そこで、三菱商会はお店の正面に「おかめのお面」を掲げました。そうして、三菱商会の社員はお客に対してとにかく笑顔で接したと言われています。お客様本位だと好評を得ており、福澤 諭吉はその姿を見て感心したそうです。

海運業以外に
 海運業以外にも炭坑・鉱山経営、造船業をはじめ銀行業、倉庫業、保険業など幅広く今日の三菱に通じる事業の多角化を展開しました。彼の経営の最大の特徴は、明治初期の時点において個人や会社にとらわれず国家的目的を追求した点にありました。

 明治11年(1878年)、紀尾井坂の変で、三菱を支援してきた大久保利通が暗殺されます。その後、明治14年(1881年)には最大の後援者だった大隈重信が失脚し、彼はピンチに陥りました。大隈重信と対立していた井上馨や品川弥二郎も三菱への批判を強めていき、渋沢栄一も敵に回してしまい、彼は共同運輸会社と海運業をめぐって戦うことになります。

胃がんにより50歳で永眠
 
今日の三菱の原点となった彌太郎は明治18(1885)年、胃がんにより50歳で永眠しました。彼の葬儀には各界要人をはじめ3万人が参列したと言われています。
 その後、三菱商会は政府の後援で熾烈な不当廉売(ダンピング)を繰り広げた共同運輸会社と合併して日本郵船となります。

 このような経緯から日本郵船は三菱財閥の源流と言われています。

 その後、三菱の事業は弟・彌之助へと引き継がれていきました。 

終章

 実業家外伝の第1号で取り上げた「日本資本主義の父」と呼ばれる澁澤 榮一と海運業界で戦った岩﨑 彌太郞。
 澁澤 榮一は、三菱が海運業界を牛耳っていることに危機感を覚え政府に働きかけ、三井財閥を中心として「共同運輸会社」を設立したと言われてます。

 牢獄の中で同室にいた木こりに算術を教わるほど勉強熱心だった岩﨑 彌太郞。彼もまた今の日本経済の礎を築いた偉大な実業家の一人です。強い反骨精神と好奇心を持って学問を究めようとする姿勢は、現代にも通ずる重要な姿勢だと言えます。

 最後まで読んで頂きありがとうございました。

 実業家外伝 #1の方もお時間がありましたら読んでみてください。


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