実業家外伝 #3 武藤山治(むとう さんじ)

序章

 実業家外伝3人目は武藤 山治です。
 彼は、戦前のカネボウを育てた「紡績王」です。

ステープル(短繊維)を紡いで糸にする工程。紡績は、混打綿⇒梳綿⇒練篠⇒粗紡⇒精紡⇒仕上げの工程で加工されます。
日本化学繊維協会 化学繊維の用語集 より

 彼は創業者ではありませんが、カネボウの業績を伸ばして国内の紡績会社を次々に傘下に入れながら国内トップ企業まで成長させました。
 トップ企業までなったカネボウですがあまり耳馴染みはないと思います。なぜならば、現在はカネボウという法人が残っていないからです。しかし、現在でも聞いたことある会社としては今でも残っています。クラシエです。

 多額の債務超過で経営危機に陥った旧カネボウ株式会社(現:トリニティ・インベストメント株式会社)の事業のうち、日用品・医薬品・食品事業はクラシエホールディングス株式会社が継承しました。
私は漢方薬をよく飲むのでお世話になっています。

何をした人なの?

 あまり知られていませんが、銀座に一軒家を借りての日本初の広告取次業を行なっていました。福澤 諭吉の甥で三井財閥の重鎮だった中上川 彦次郎(なかみがわ  ひこじろう)と出会い三井銀行にスカウトされた後、鐘淵紡績(後のカネボウ)の再建を行い国内トップの企業へと進化させました。鐘淵紡績は明治から昭和初期にかけて、国内企業売上高1位でした。

 参考までに2022年現在の国内の売上ランキングをみます。

  1. トヨタ自動車(約31兆円)

  2. 本田技研工業(約14.5兆円)

  3. 三菱商事(約13兆円)

 現在の売上一位はトヨタ自動なので、そのポジションに鐘紡がいたと考えると、いかに鐘紡がすごかったか分かります。

 彼は「生産第一主義」を信条とし、「温情主義」を掲げて経営を行っていたため社員からの信頼は絶大だったと言われています。
 日本有数の売上高・総資産額を誇る大企業に成長した鐘紡の「温情主義」「家族主義」と呼ばれる従業員を優遇する経営スタイルは、後進の日本企業の手本となっています。
 この時代の紡績工場は「収容所」と呼ばれるほどひどい環境でしたが、彼は女工たちを家族同然に大切にしていました。乳幼児を持つ女工のための保育所を設置したり、病災救済を目的として共済組合の設置など、経営者として彼は時代の先駆者であり、正義感と独立自尊の精神に溢れ、武士道的経営を実践しようとした実業家でした。

明治から昭和初期まで日本の輸出を牽引した紡績業の背景には、貧しい農村出身の女子労働者を極端な低賃金で使って成し得たという事実もある。その中でも武藤は、労働者に厳格に勤労を求めつつ、一部の紡績工場に見られた女工を踏んだり蹴ったりするような非人間的な行為は、到底許さなかった。武藤の行為を偽善的と批判する評論家もあったが、武藤自身は大真面目に温情主義を掲げていたのである。
三田評論ONLINE【福澤諭吉をめぐる人々】武藤山治 より

 彼は実業家としての側面も大きいですが、政界にも進出しました。彼は政党政治の腐敗と堕落を見るに忍びず、実業家の立場から、「政治一新」を掲げて政界にも乗り出します。政界に巣くう悪を討ち健全な資本主義社会を取り戻すために、政、官、産癒着の実態を白日の下に暴き出し、彼らに反省を促すという使命感に燃えていました。
 政界を引退後は、国民の政治教育のために私財を投じ、国民會舘(現・公益社団法人國民會館)を設立します。

 また、時事新報の再建を引き受け「経営担当者」となります。それまで赤字に陥っていた時事新報の業績を黒字に転換し部数も大きく伸しました。

当初の福澤諭吉の計画では、政府の伊藤博文や井上馨の要請を受けて政府系新聞を作る予定だった。しかし、1881年の「明治十四年の政変」により大隈派官僚が失脚してしまったので、その計画は頓挫してしまった。結局、慶應義塾の出版局(現・慶應義塾大学出版会)は、その時、既に記者や印刷機械を準備していた為、慶応独自で新聞を発行することになった。それが『時事新報』である。
Wikipedia 時事新報より

 帝人事件の疑惑報道の直後の3月9日に北鎌倉台山(当時大船町山ノ内)の自邸を出たところで福岡県出身の元外交員で失業者の福島新吉に銃撃され5発の弾丸を受け、翌日に死去します。

心酔者には宗教教祖のように慕われた武藤ではあったが、敵対者には命までも狙われたのである。しかし彼の偏狭さと独断を批判する者であっても、彼の高邁な人格と清廉潔白さを疑う者はいなかった。
NPO法人 国際留学生協会/向学新聞 より

カネボウに関わるまで

 カネボウという名は会計や経営を勉強している人にとっては馴染み深いかもしれません。ペンタゴン経営カネボウ事件は一度は耳にしたことがあると思います。残念ながら、カネボウが破綻した原因と言われていますがケーススタディとしてよく用いられます。

 武藤 山治は関わっていませんので、この話は少しだけ終章で触れます。気になる方は以下に関連する記事を貼るので読んでみてください。

 カネボウの話はそのくらいにし、武藤山治に話を戻します。 

 武藤 山治は岐阜県の豪農の長男として生まれました。福澤 諭吉に心酔する父親の勧めで、13歳で年少者対象の和田塾(後の慶應義塾幼稚舎)に入学するため上京しました。彼の父は熱心な読書家で、当時評判となっていた福澤諭吉の『西洋事情』を読んでいたそうです。

『西洋事情』は初編,外編およびニ編の3編から構成されている。初編は慶応2年,外編は同3年,そしてニ編は明治3年に公刊された。同書について,福沢は明治 31年に全集を刊行する際,つぎのように解説している。
「西洋事情は余が著訳中最も広く世に行はれ最も能く人の目に触れる書にして,其初編の如き著者の手より発売したる部数も 15万部に下らず,之に加ふるに当時上方辺流行の偽版を以てすれば 20万乃至25万部は間違ひなかる可し。」
いかに多くの読者を獲得したかがわかるであろう。西洋事情に関する人びとの関心は非常に強かったわけである。人びとは西洋の知識を渇望していたのである。
『帳合之法』以前における福沢諭吉の会計思想 より

 その後、慶應義塾本科に移り、4年間、福澤 諭吉から直接、独立自尊の精神を学びました。福澤 諭吉から直接聞く話に感動を覚え、心に深い印象を残したと言われています。

武藤は、間もなく和田塾から本塾に移り、童子寮と呼ばれる寄宿舎での生活が始まった。武藤は、「福澤先生の一大人格に自ずと触れ、その感化を受けて世の中に出た」と言い、後の学生が文字の上で福澤に触れるのとは、大きく違うことを指摘している。
https://www.mita-hyoron.keio.ac.jp/around-yukichi-fukuzawa/201903-1.html

 彼は17歳で慶應義塾を卒業すると、同級生2人と共に米サンフランシスコのパシフィック大学に留学します。

 帰国後に福澤 諭吉の甥で三井財閥の重鎮だった中上川 彦次郎(なかみがわ  ひこじろう)と出会い、三井銀行にスカウトされました。中上川 彦次郎は三井財閥の工業化と三井銀行の不良債権処理を推進し、三井家の最高議決機関である「三井家同族会」を設置した人物です。

 当時、日本の紡績業はまだ成長事業であり、その頃の鐘紡は不況で解散の危機に瀕していたため三井銀行の傘下に入り中上川 彦次郎に経営再建が託されていました。
 そんな彼にスカウトされて入った三井銀行で武藤 山治に課せられたのは、当時業績不振に陥っていた鐘淵紡績(後のカネボウ)の再建でした。

鐘淵紡績(かねがふちぼうせき)時代

 鐘紡は当時中上川が社長でした。専務取締役を任されていた朝吹 英二(あさぶき えいじ)は、たびたび関西を訪れ、武藤を連れて、関西の紡績会社に挨拶に回りました。朝吹は、「兵庫工場は、なるべく地味にせねばならない。事務所は粗末にするように」と、しきりに武藤を諭しました。
 彼は、福澤門下の兄弟子ともいえる中上川と朝吹から経営のイロハや従業員を大切にする姿勢を学んでいきました。

 そして、鐘淵紡績に入った初めの5年程度は365日、1日も休まず働いたそうです。支配人が誰よりも働くため部下たちも日曜、祭日なしに働いていました。

朝は8時から夜は9時過ぎまで、尻が破れて雑巾のように縫ってある洋服に、エンジニアのかぶる鳥打帽で、機関室でも、どこでも入っていく。そのため帽子は油だらけ。その姿で、事務所と工場を駆け回っていた。
三田評論ONLINE【福澤諭吉をめぐる人々】武藤山治 より

 彼は兵庫工場の初期に経験した試行錯誤や様々な失敗から、修繕費は惜しまず機械の保全と改良を完全にすること、従業員を優遇し教育を施し進んで働くようにすることが、工場経営の極意であると悟ります。
 彼は「職工優遇こそ最善の投資なり」として、武藤の経営スタイルとなった温情主義経営を実践しました。 

 中上川の死後、三井グループを牽引した益田孝は、中上川路線の清算を打ち出し、鐘紡の株を売却してしまいます。そうして鐘紡は三井グループから離脱します。
 最終的に大株主になった29歳の青年相場師鈴木久五郎と鐘紡の総支配人であった武藤山治は株主総会でも意見が合わず、彼は辞表を提出してしまいます。中でも鐘紡の株をめぐり、神戸の華僑・呉錦堂との仕手勝負は東京取引所創業以来の凄まじい攻防戦だったと言われています。
 ちなみに、鈴木久五郎は明治期を代表する伝説の相場師として兜町界隈で語り継がれている人物で、元祖「成金」と呼ばれた人物です。

 彼の辞表に立ち上がった鐘紡の職工たちは武藤の復職を求めて、ストライキに入ります。スローガンは、「前支配人武藤山治氏の復職要求」でした。職工たちは武藤が油まみれになりながら、彼らと一緒に工場で働いていたことを見ていました。そして、彼の温情主義経営により会社の福利厚生が整いつつあることを知っていました。

「武藤さんを見殺しにするな!」

 これがストライキの合い言葉になっていたといいます。職工たちのストライキにより、武藤は監査役として復職しました。その後、彼は社内の事実上の最高実力者となります。彼は社長就任に当たり、「社長の任期は一期3年として、三期以上継続するを得ず」という定款変更を株主総会に提案して承認されています。

 武藤は鐘紡在籍中、後に社長に就任してからも、その工場を離れようとはしませんでした。それどころか、定款に工場構内以外に事務所を持つことを禁ずると明記したほどです。
 生産第一主義を信条とし、始終顔を見合わせる関係から真の信頼関係が生まれると考えていました。そんな鐘紡の経営内容や安定度は業界では他を圧倒し市場からの信頼は絶大でした。
 社員たちは非常に武藤 山治に心酔したと言われています。後に、武藤が政治活動に専念するため、会社を辞職しようとした時、株主、社員らは猛烈な留任運動を展開しました。臨時株主総会を開催して、彼を引き留めようとするほどでした。その臨時株主総会の開催をやんわりと拒否した武藤に対して、裁判を起こそうとするほど、株主、社員らは必死だったと言われています。鐘紡における彼の存在は絶大でした。
 それ故に鐘紡は「武藤の専制王国」と呼ばれていました。

新聞人として

 時事新報の再建を引き受けた彼は、同社の相談役となり、事実上の社長として経営を軌道に乗せることに心血を注ぎました。また経営だけでなく、「思ふまゝ」や「月曜論壇」を自ら執筆しました。新聞人として、国民に向けた政治教育にも力を注いだのです。
 帝人事件の疑惑報道の直後の3月9日に北鎌倉台山(当時大船町山ノ内)の自邸を出たところで、福岡県出身の元外交員で失業者の福島新吉に銃撃され5発の弾丸を受け、翌日に家族に見守られながら永遠の眠りにつきました。
 大阪の國民會館で本葬が、東京でも時事新報社で告別式が営まれました。國民會館は福澤の演説館を見習って私財を投じ、昭和8年6月に政治教育の殿堂として開館した建物です。
 時事新報を引き受けてから東京を拠点とした武藤にとって、本葬の日は開館式典以来2度目の無言の来館となったのです。
 新聞人としても経営者としても優れたリーダーであった武藤 山治を失った時事新報は経営悪化の一途をたどり昭和11年に廃刊となります。

終章

カネボウのその後
 カネボウ崩壊の元凶と言われているのは武藤絲治に認められ、のちにカネボウ会長となる伊藤淳二だと言われています。彼はのちに日本航空の会長に就任します。カネボウのクーデター事件がたたって関西の財界では爪弾きされていたため、中央へ歩をのばす絶好の機会と思い日本航空の会長に就任します。しかし、彼は伊藤の後ろ盾であった中曽根首相が余りにも期待はずれであったため愛想をつかしてしまったと言われています。その際に、彼は「政府の支援が十分ではない」との捨て台詞を残して、任期途中で辞表を出して無責任にも日航を辞任します。
 カネボウでは伊藤が名誉会長となり、内外で評判の悪かった永田 正夫が後任の社長となります。永田 正夫はクーデターの際に武藤を裏切り伊藤についた曲者でした。営業の経験は全くなく総務関係、特に総会屋との黒いつながりが囁かれた人物でした。
 彼が有名なのは伊藤が日航在籍中の昭和61年(1986)に出された伊藤批判の本「日航機事故を利用したのは誰か」という本15,000冊を出版される前に全量鐘紡の費用1,000万円で買い取り、裁断処分にしました。

24年間社長、会長に君臨してその後も実権をふるった伊藤にとって、会社の実状は誰よりもわかっていたと思う。
会社の危機に臨みなお「芸術化産業」などと、ねぼけた再建とは関係ないことを論じていた馬鹿げた伊藤のため、鐘紡はこの世から消え去ったのである。
鐘紡崩壊の元凶、伊藤淳二 第3節「鐘紡再建の手を全く打てなかった伊藤」より

 武藤 山治が日本トップ企業に育て上げ、第二次世界大戦後に海外資産や国内外の工場を失い苦しくなったカネボウをなんとか持ち直した武藤絲治(武藤 山治の次男)が守ったカネボウは、経営手腕のない伊藤に経営を譲ったがために経営悪化を続けとうとう2008年に終わりを迎えます。

 親族経営の是非が問われることが多いですが、真に従業員を思い自ら率先して会社に尽くす経営者であれば親族であろうがそうでなかろうが関係ないのではないでしょうか。
 実際に、武藤 山治はカネボウで紡績の研究を怠ることなく品質改良に妥協をしませんでした。日本有数の売上高・総資産額を誇る大企業に成長した鐘紡の「温情主義」「家族主義」と呼ばれる従業員を優遇する経営スタイルは、後進の多くの日本企業のお手本となりました。
 時事新報も、彼が経営を行い毎年計上していた赤字を激減させ「昭和9年、すなわち福澤先生御生誕100年の年には、赤字を克服し、先生の墓前にご報告する」と言うほど努力をし達成します。
 彼は経営者としては失敗をしていると評価されることも多いです。しかし、株主を疎かにした従業員優先主義により歪なカネボウという会社を作ったと言われている武藤 山治の経営に対する姿勢は停滞する日本経済を担う日本企業の経営者が見習うべきことも多いのではないでしょうか。

 最後まで読んで頂きありがとうございました。

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P.F.R @おかねをまなぶ
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