実業家外伝 #1 澁澤 榮一(しぶさわ えいいち)

序章

 実業家外伝記念すべき1人目は澁澤 榮一です。
 彼は、開国から昭和初期までの激動の時代において、日本経済の基礎を築いた人物で、第一国立銀行(現在のみずほ銀行)など数多くの企業を設立し、日本の資本主義の父と呼ばれています。
 新紙幣として2024年度を目処に発行される日本銀行券の一万円札の肖像画の人物なので、今後多くの国民が馴染みある人物となると思います。

何をした人なの?

 日本の資本主義の父と呼ばれていることは知っている方も多いと思いますが、実際に彼は何をした人物なのでしょうか?
「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」で有名な経営学者のドラッカーによると、

誰よりも早く1870代ら80年代にかけて、企業と国家の目標、企業のニーズと個人の倫理との関係という本質的な問いを提起した

マネジメント務め、責任、実践

と高く評価し、

20世紀に日本は経済大国として興隆したが、それは渋沢栄一の思想と業績によるところが大きい

マネジメント務め、責任、実践

と言及しています。

 彼は、およそ500以上の企業の設立や運営に関わったと言われています。さらに企業だけではなく、およそ600を超える社会・教育事業にも関わっているといわれています。彼は功績が多く、ノーベル賞のように一つだけ功績を挙げることが難しいからこそ、あまり馴染みのない人物だと言えます。また、彼は岩﨑 彌太郞のように自分自身では財閥をつくらなかったこともあまり馴染みのない理由の一つとして挙げられます。

澁澤 榮一は、社会をより良くより豊かにするために数多くのことをやっていた人物なのです。

澁澤 榮一の活躍

 澁澤 榮一は慶応2年(1866年)、一橋慶喜が将軍になると同時に将軍直属の家臣となりました。そして、パリで開催された万国博覧会に参加し、パリ万博やヨーロッパ各国の実情を視察します。ヨーロッパでは整備された水道設備やエレベーター、蒸気機関車など、日本にはまだない先進諸国の進んだ科学技術を目の当たりにしました。彼は、ヨーロッパ文明に驚き、また、人間平等主義にも感銘を受けたと述べています。

 明治維新後に帰国した渋沢栄一は、明治2年(1869年)に日本で初めての合本組織である「商法会議所」をフランスで学んだ株式会社制度を実践することや、新政府からの借入金返済のために静岡に設立します。その後、商法会議所で頭取として活躍していましたが、明治新政府からの民部省への出仕要請を受けて東京に行くことになります。渋沢栄一は、はじめは幕臣だった自分が新政府で働けるのかどうか疑問に感じていたため、一度は辞任を決意しました。しかし、大隈重信らの強い説得により、民部省で仕事をすることになったのです。民部省にて租税正という役職に就いた渋沢栄一は、正常に機能していない民部省を整える必要性を感じ、その旨を訴えた結果、改正掛が設置されることになりました。その後、改正掛のトップとなります。租税や貨幣、土地制度などを確立するために計量に用いる長さや体積、重さの基準を定める制度である「度量衡(どりょうこう)」の制定や、国立銀行条例の制定に関わりました。明治4年(1871年)には民部省は大蔵省に統合され、これに伴い渋沢栄一は大蔵大丞となります。

 しかし、その2年後に彼は大蔵省を辞職してしまいます。その理由は、大久保 利通や大隈 重信と対立したためでした。彼は、予算編成を巡って大久保 利通や大隈 重信と対立し明治6年(1873年)5月14日に井上馨と共に退官しました。

 彼は大蔵省を辞めたあと、アレクサンダー・フォン・シーボルトやその弟、そして共に大蔵省を辞めた井上馨(いのうえかおる)らとともに、明治6年(1873年)に設立に携わった第一国立銀行の総監役に就任します。

資本主義の礎を築いた

 澁澤 榮一は功績が多く、一つの功績を挙げることが難しいと述べました。
しかし、強いて功績を挙げるととするとやはり資本主義の礎を築いたことが挙げられます。
 彼は資本主義の礎として、銀行・証券・商工会議所を設立しました。

  • 銀行を設立

  • 東京証券取引所を設立

  • 商工会議所を設立

銀行を設立
 
33歳で大蔵省を退職した澁澤 榮一は、明治6年(1873年)7月20日に、日本で初めてとなる銀行の「第一国立銀行」を現在の中央区日本橋兜町に創設します。後に、現在の「みずほ銀行」となる銀行です。
 澁澤 榮一が銀行を設立したのは、日本経済がこれから発展していくためには産業に対する融資が欠かせないと考えていたためです。

東京証券取引所を設立
 明治11年(1878年)には、日本経済に銀行制度と株式会社制度を普及させるために、日本で初めての公的取引所となる「東京株式取引所」を創設しています。これは後に、現在の「東京証券取引所」となりました。

商工会議所を設立
 彼は東京商工会議所の設立を日本の実業界の地位を向上させる好機と捉え、「設立については実業界の問題を多数の人々によって相談して公平無私に我が国商工業の発展を図らなければならない」と考え、海外視察の経験がある大倉喜八郎をはじめとした7名の創立発起人らとともに準備を進め、1878(明治11)年3月に東京商工会議所が誕生しました。

 このように、日本経済が発展するために資金配分の基礎を構築し、民間経済の活性化に貢献したことによって、「日本の資本主義の父」と呼ばれるようになりました。

インフラを整えた

澁澤 榮一が創設に携わった企業で現在でも活躍している企業の一つに、「東京瓦斯会社」があります。現在の「東京ガス」の前身となる会社です。

 当時、ガス灯は大衆に受け入れられず、さらに電灯が登場したこともあり東京瓦斯会社は廃業寸前となっていました。しかし、それでも彼は諦めずに、東京瓦斯会社の経営を改善し続けて事業を軌道に乗せると、官業であったガス事業を高値で民間に払い下げて、それ以降も地道にガス事業を続けて成立させていきました。
 現在、私たちが当たり前のように使っているライフラインの一つであるガスインフラも澁澤 榮一の偉大な功績のひとつです。

終章

 明治維新以降の日本の資本主義の発展は澁澤榮一を抜きに語ることができません。彼が志向したのは欧米流の利益第一の資本主義ではなく公益を第一に考えた資本主義でした。今の企業経営はSDGsが重要だと言われていますが、まさに彼が整えた資本主義は今の企業が行っているESG経営を行うそのものではないでしょうか。
 今後一万円札を見て、私たちの国の経済基盤を使った澁澤榮一に感謝するのもいいかもしれませんね。


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