『ウルトラマン』第33話「禁じられた言葉」について
おそらく『ウルトラマン』における最高峰の一本である。
確かに金城哲夫による脚本上は、サトルが「地球は君のものだ!」と言ってしまうのだが、それが「視聴者に対する言い訳」(白石雅彦『「ウルトラマン」の飛翔』2016・双葉社)めいているのはともかく、そうであっても、メフィラス星人が「子供にさえ負けてしまった」と言うのは同じなのだから、脚本ではやや屈折した回路を通じてメフィラスを敗北に追い込んでいるということである。
つまり地球人は「ウソ」をつくことができるのである。例えば民法の言葉で言えば、サトルは心裡留保の上で返事をし、しかもウルトラマンとの間でそれを共有して虚偽の表示を行ったとも考えられる。もうおわかりであろう。完成作品でも削除されなかった、メフィラスの「スパイめ!」という言葉の意味が、ここで明らかになってくるのである。
そう、ウルトラマンやウルトラセブンは、もしかしたら、「スパイ」と呼ばれうる存在かもしれないのである。シリーズ中の最も重要な場面と思われる、「きさまは宇宙人なのか?人間なのか?」「両方さ。」というやり取りの意味は確かにそのようなことを、言い方はともかく、言おうとしている。宇宙人でありながら地球人の味方になることはできないし、地球人のままでは「宇宙の掟を破る奴」に対抗できない。もしかすると、これはウルトラセブンに強く当てはまるのかもしれないが、ウルトラマンが地球にとどまること自体が、「宇宙の掟」を少しく逸脱しているのかもしれないのである。それを、地球人の「名を借りて」滞在することによって、その違法性がいささか軽減しているのかもしれない(一方で、彼らはその「正体」を地球人に隠すことによって、地球人を裏切っていると言うことが可能になってしまう―二重スパイである。こう考えると、『ウルトラセブン』その他の最終回がいかなるドラマを描いているのかが改めて浮き彫りになって来よう)。
「宇宙は無限に広く、しかもすばらしい」。このことは本当なのだろうと思う。我々は地球を見限ることはできても、宇宙に対してはどのような態度も決定できない。だから素朴に、宇宙は素晴らしいと思うし、涙さえ禁じえないのである。そこで、「地球のように戦争もなく、交通事故もなく」と言われるとき、宇宙には、対立のない、いわば無限に中立的な存在の仕方があることに気付かされる。ウルトラマンも、メフィラスも、おそらく本来はどこまでも「中立」な存在であった。メフィラスは「私が欲しいのは、地球人の心だったのだ」という言い方でそれを表現している。すなわち物理的な対立を避けてごく自然な形で地球を掌中にしたかったのであり(もしかしたら彼は、地球を手に入れたとしても、その後何もしなかったかもしれない)、しかしながらウルトラマンは地球人との友好的な関係を背後にして―中立的な態度を崩してメフィラス星人と闘おうとしたのである。だがそうなると、致命的なことが一つ浮かび上がる。そうであれば、サトルが、ウルトラマンはハヤタであることをあらかじめ知っていなければならないのである。
だから完成作品ではサトルが決して屈しないように変更されたのだ、と言い切ることは無論できないのだが、鈴木俊継監督は、「どうだね、この私に、たったひとこと、地球をあなたに上げましょう、と言ってくれないかね?」「いやだ!絶対にいやだ!」という応酬にこそ、非常に本質的なところを見ていたと言うことはできそうであり、その対立の先に、「ウルトラマン」が見出されることを、描き出しているように思われる。
本話は全ウルトラマンシリーズを通じて重要な回であり、特に『帰ってきたウルトラマン』においての「人間関係における『ウルトラマン』の充溢」という問題に関連して、常に参照される必要がある。
※なお、蛇足的なことだが、フジ隊員が巨大化することには、何かが嘲笑されているような印象を受ける。ハヤタ=ウルトラマンはメフィラス星人に対応する。バルタン星人、ザラブ星人及びケムール人が残された三人の隊員に対応させられるとしたら(演出上そう思えるのだが)、残るフジ隊員は、よりどころを失って巨大化させられる、ということはありうる気がするのである。ここに「女性」についての我々の文化(「心」)がかなり先鋭的な形で(メフィラス星人の手によって)表現されているとも思うのだが…。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?