『特捜エクシードラフト』第5話「一人ぼっちの宇宙」について

 プロデューサー・堀長文が本話を「年間賞」に挙げている(DVD vol.5 ライナーノーツ)が、確かにそう呼ばれるにふさわしい回である。

 地上から無限の宇宙へ、童話的な回路を通じて夢と想像力を放つのである。

 本シリーズについては、前二作と比べたとき、主人公らの中に人間でない者がいないということが言える(SIMに人格を求めた回はついぞ登場しなかった)。この場合、子ども番組の核心的な要素たる「夢」が、窒息してしまう恐れが十分に考えられた。例えば『特捜最前線』には「夢」は必要ないかもしれないが、このフォーマットにおいてはそれは断固として必要なのである。

 今回は、宇宙に置き去りにされた人工衛星シーガルと、勇太との交流がまずあり、それはそれ自体すでに夢を描く童話の結構を備えている。ところがそこに、それを悪用せんとする悪が闖入する。そしてそのこと自体は、カットが「繁華街」に移るとき(勇太が歩道橋を歩く場面の直前)に挿入される雑踏・駅のホームの映像から感じられるように、地上に生きる夢をなくした者たちにとってはひどくありふれた事態にも思われる。しかし本来そうであってはいけないのであるからこそ、主人公たちがその夢を守らなければならない(本シリーズとはそういう物語である)。そしてその行為は宇宙に向かって放たれてその感触を得るのであり、すなわち無限遠の夢が、ここに守られたことになるのである。ラスト近く、空を見上げる三人の姿をかなり高いところからとらえたカットがどこまでも美しいのは、そういうわけである。

 つまり今回は宇宙という場を得て夢は大きく広がることができたわけだが、この想像力の生死の問題は、全シリーズを通じて避けられない問題となっているのであり、従ってそれによってこのシリーズ全体を論ずることも可能である。

※付記

 上記ニュースの写真をご覧いただきたい。本シリーズに登場する悪役そのものずばりの姿ではないか。姿だけではない、やったとされることもそうだ。つまり、このような悪事が事実存在するこの世において、存在しないのは本シリーズの主人公たちではないかと思われるのであり、世界情勢を見ていると、「愚かな人間ども」はこのまま自らの手で滅亡するのだろうと感じられるところ、本シリーズを「炎の黙示録」として真剣に研究することに、いよいよ意義があるように思われてくる次第である。

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