「子どもたちが屠殺ごっこをした話」第2話 について
グリム童話である。岩波文庫版、金田鬼一訳を読んで書いている。
続く第2話では事件そのものしか描かれない。
それにしても、起こったこと以上の情報がない。例えば「遠野物語」などは、いかに救いようのないことがあったとしても風景とか、ものの言われ方等から何か違う話をすることができた(それが実際エクスキューズであったかどうかは別の問題としても)と思う。ところがこれはどうだろう。おそらくそのような手掛かりは「おひるすぎになって、子どもたちが遊戯をしたくなると」という部分くらいにしかない。もちろんこれだけでは心もとない。
だから、やっぱり、なにがあったのかを丹念に見るしかない。
もはやしっちゃかめっちゃかなのだが、問題は第1話の項でも少し触れた、介入、横槍、ごっこ遊びを強制的に終了させる試みの失敗である。別に「どうすればよかったか」ということではない。たぶんこうなってしまうものなのだろうとも思う。
ただ、仕組みを見ることはできる。豚役の子は「けたたましい声」をあげる。屠殺の過程で豚が声を立てるのは普通だが、「このできごと」は異常であり、その声のけたたましさはこれに参加していない者にとっての「このできごと」そのものの音量である。けたたましい事態が起こっている。すると、自然、とっさに介入しようとすれば、そのやり方もまた騒々しいものになってしまう。「腹たちまぎれに」とは書かれているが、要するに恐慌に近い。
ごっこ遊びのルールに則って参加したのではないにもかかわらず、しかし日常レベルでない騒々しさに対抗するやはり現実離れした介入を行ってしまったがために、この場自体が現実と断絶してしまう。だから上階にいる赤ちゃんが溺死してしまう。「心配が嵩じて、やぶれかぶれになり」という言い方は、恐慌から引き続いてというよりもある呆然としていた時間があったことを感じさせる。それは事態と日常生活との距離であり、そこに惨劇の後の完全な静寂があったに違いないのだ。そこで妻は、やっぱりなんでこんなことになったのかわからないという思いでいたことだろうし、だから慰めが耳に入らない(慰めは事態を参照しえなかったに違いない)。
夫が帰ってきて、何が起こったのかを知るのだが、そこには「めしつかいの者たち」が生き残っていたはずで、「ありさまをのこらず見る」前に彼らからいきさつを聞けたはずだ。しかし聞いても余計訳が分からなかったことだろう。陰気になってしまうのはいずれにしてもわからないからだ。
一瞬間だけ成立した、爆音を発する暴力の空間。これは実はなじみ深いものだ。夫婦喧嘩でも何でもいいが、その場で発生させうる一番大きな音が出るまでその空間は存続する。それに介入する方法も、実際、参加者の誰よりも大きな音を出すというものになってしまう(これは動物―魚類や昆虫に至るまで―にも観察できることだ。この場合物理的な音に限らない。向かい合った二頭の動物が一触即発の状態にあるところ、もう一頭がその間に凄い勢いでジャンプして割り込んでくる、など)。問題は、ごっこ遊びだったということだ。母が介入してきたとき、喧嘩と違って場の内部は冷静だった可能性が高いのだ。繰り返すが「けたたましい声」はこの遊びの中では想定内なのだ。つまり「場を読み違えてかえってめちゃくちゃにしてしまうおそれ」に、外部の者は怯えていなければならないことになる。
30年以上前のことだと思うが、知人が訪れても警察が来ても犯人らが死体を分解することを中止しなかったという事件を思い出す。そのようなオペレーションがあった場合、それをどのように中断させ、解散させるのがいいのか。警察のような無名の第三者が現行犯を押さえるしかないと思うのだが、このお話のような極めてドメスティックな状況においては、まことにどうしようもないのではないか。しかし本当にどうしようもないのだろうか。
また、第1話のような「その後」の問題もこれとの関連で考えると途端に行き詰る―日常との大きすぎる断絶があるためだ。