「子どもたちが屠殺ごっこをした話」第1話 について
グリム童話である。岩波文庫版、金田鬼一訳を読んで書いている。
議員らにおいて、これが「ほんの子どもごころでやったこと」であるのが明らかだから下手人をどう処分してよいかわからない、という意味のことが書かれている。簡単な裁判が行われるが、それもどうやら「子どもごころ」を確認するためだけに行われている(子どもであることを確かめる方法について議員らは悩み、従って老人の考えが「うまいちえ」と呼ばれるのだ)。つまりここでは、そのような心性であればこれほどのことをしても無罪である、というのは、とてもわかりきったことのようなのだ。
これはごく自然に理解できてしまうことなのかもしれない。しかしわたしは「これほどのこと」と書いた。それも、特に不自然な感覚ではないだろう。
「むごたらしい」犯罪事実があって、それの責任をどこかに到達させようとしている。しかしできない。だから処罰しない。わかりきったことだが、処罰には意味があり、それがわからなくては処罰しても仕方がない(それが死刑であったとしても)。これは現在でも基本的には様々なところで採用されている刑罰の考え方であり、お話の中の裁判も理解できないものではない。また、林檎と銀貨が示されるのだが、例えば通貨はその意味を理解したものに対してしかその共有されている価値を示さない。すなわち銀貨の価値を認めないということは、当該貨幣を用いた社会に直接参加していないということでもある。このような思想の由来を考えてもいい(自明のものではない)が、とりあえずここではしない。とにかく、注意深く考えればある前提(行為者に責任を到達させなければ刑罰の意味がない、という前提)のもとに成り立っている考えなのだが、それによって辻褄の合う処理自体はなされているのである。
だからこの手続きのために、「これほどのこと」はそのままそれとしてあり、法律的評価および処理によって、その事態の埋め合わせがされるわけでもない。グリム童話の残酷さはよく言われるが、今回は残酷な刑罰は課されないのである。これはやや驚くべきことだ。なされたことの凄惨さが未処理のまま評価されずにあるのかどうなのか。読む人次第というよりも読み手の所属する文化にかかわってくるように思われる。
例えばいろいろなことが言える。「呪い」とだって言える。だがそれにはきりがないだろうし、それ以上に、教訓を引き出そうとする試みや時代を参照した文化論さえも、この所業の前には無力だろう。
そのうえで、この語り手の「言い方」が気になってくる。実行行為の場面で、登場人物らは「豚をつぶす人」「豚になるはずの男の子」「お料理番の下ばたらきの女」と呼称される。しかし裁判の場面では「豚をつぶす人」は「男の子」になる。だからその、「ごっこ」が問題になってくるのではないか。「ごっこ」のなかで殺人がなされたのだ。「豚になるはずの男の子」を「つぶす」という演目の「ごっこ」だ。しかもなんと巧妙なことだろうか、役割が決まった過程がひどく曖昧で、例えば「豚をつぶす人」が自らそれを任じたわけではないのである。現実に行われているはじめと終わりがある作業を参照しているに過ぎないから、「つぶす」にとどまらず、議員が偶然通りかからなければ腸詰をつくるまで終わらなかったに違いない。生物を殺して食べていることが見つめ返されているのだろうか(それが「呪い」という考えにつながることもあるだろう)?しかし少なくともこの語り口はそれを意図してはいないと思われる―なぜなら第1話の眼目は裁判にあるからだ(このように処理するのが良い、とでもいうような)。そうすると、我々の手元に残るのは「ごっこ」遊びの不可解さだけになる。
限られた登場人物が役割を固定化されてするすると進めてしまう凄惨な犯罪(に限らないのだが)の例を、我々は数多く知ってはいる。それらと同じ、ということに気づいて、ではどうするか。緻密にそれぞれの事態における力の及ぼされ方を紐解いていくしかない。このお話は情報量から言ってもその作業をすることはおそらく不可能なのだが、もうほとんど何も言いようのないところまで退路が断たれて、そのうえで別の構造に目を向けることができる掌編である。
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