『特捜エクシードラフト』第9話「危険な家族ごっこ」について
本シリーズ、「多様化する犯罪から…」と毎度始まるのだが、実際、犯罪に使われる器物が近未来的だという程度で、描かれる犯罪という事態そのものについては、それほど目新しさがあるわけでもない。「レスキューポリス」誕生のきっかけに、ある事件への問題意識があり、というのは有名な話で、そこから考えると例えば80年代とは本当に多様な犯罪があり、振り返ってみればほとんどあらゆることがあって、現在もそれらを文化的に乗り越えられていないし、そもそも「昭和」の終わりとともに文化は、態度として何も根本から整理することをしなかった。
「多様化する犯罪」を言おうとするならば、そのような整理に加えて、とても明晰なヴィジョンとそれを映像化する過酷な作業が必要で、出来るものはまさに黙示録となっただろう。3つの魂は新たな事態に嫌というほど試されただろう。だが御存じのとおり毎回がそういうわけでもない。仕方のないことではある。
しかしそれでもこういう回がある。感涙はことごとく遠藤憲一のこれ以上ないほどの名演によるとして、些細だが別の見るべきことを見る。
守の人生経験があの年齢でどの程度あるのかわからないが、長井に二人分の骨を持ち歩いていると聞かされ、その袋を見せられることの衝撃は大きかっただろう。それは彼にとっておそらくほとんど初めての「家族」というものの根本に触れる体験だったに違いない。守が悪い意味でなく非現実的なのは、自らの家族は壊れているという感覚をかなり鮮明に持ったために、新しい家族、新しい現実を作ろうという方向に意志を向けているからだ。そして疑似だからこそほんとうの、という論理を、現実そのものである長井が妻子のお骨が斥けないのは、守がそれの意味を理解することで、逆に自分の事態が血や骨のレベルでさえ取り返しのつかないほどに崩壊してしまっていたことをたちまち理解したからではないか。相当飛躍した言い方をすれば、自分の、現実の家族における自分の、死を幻視したとさえ言っていいと思われる。
しかも驚くべきは,主人公らは心情的に長井を逮捕したくなくなっているのだが(そうしなくても確かに堂島の逮捕は容易だ)、長井のほうが逆に、最後自らそれを犯罪であるように演出してこの「家族ごっこ」を終わらせるのだ。これはこう書くだけでまことに雄弁であるので、何も言う必要がない。
守の母は日本でないと仕事が、というのはまさにその通りで、日本以外の文化においては彼女のやり方では無理だろう(彼女はこの国の文化のある部分の代表者然とすることを商売としているようなものだ)。彼はこの文化に対するはっきりした嫌悪を口にする。これが当時の状況においてまことに素直なところであったと想像する。本当にいろいろな「家族」や「子ども」にまつわる犯罪があった。だが誰が深いところからはっきりものを言っただろうか、と思う。異様なことどもが断片的にあったというだけではないだろう。守の母の有様は文化のメインストリームが事態にそれぞれについてどのような態度をしていたのかを象徴しているようで(というかまさにあのままだろう)、印象深い。「船に乗っちまう」とは例えば結構前だが「イエスの方舟」の件もあって当時を振り返れば本当にありそうなことだったのではないか(「乗せられる」のはヨットだ)。これが92年の作品で、今考えればこの後にこそいろいろ、と思われるかもしれないのだが、昭和が終わってすぐ95年になったのではなく、その間があった。
隼人と耕作は同い年で、年齢は劇中の設定よりプラス5くらいしたほうがいいと思うのだが、とにかくそれぞれに様々な経験をしてきていて、一方は世界規模で、一方は日本(おそらくは東京)で日々犯罪に直面してきていた。だから全体的に何がどうあるべきかはどちらもわかっていて、おそらく文化的なレベルでより広い視野のあったほうが隊長になったのだと思う。だから今回敬語が外れる場面があるのは、二人の人生(人間そのもの)がかかったやり取りをあらわしていて感動的だ。隼人が「そこまで言わせるな」と言いそれまでになるけれども、耕作は例えば「言ってみろよ」と言えたはずで、しかしそれでも隼人は限りなく正しいことを言ってみせたと思う。それが聞きたかった。なぜ隼人は言いたくなかったのか。よくわかるのだが、うまく言葉にならない。
このエピソードのために本シリーズは作られたといってもいいほどの回である。
※これはもともと7年くらい前に書いた文章だが、現在は『特捜エクシードラフト』についての考えを少し変えていて、例えば「出来るものはまさに黙示録となっただろう」と書いているが、今では「まさにある種の黙示録だった」と思っている。この辺りは、長い時間をかけてまとまった成果をなしたいと考えている。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?